NOTを掲げる決意
満を持して、といおうか、2011年の6月には〈not〉というオーガナイズ・イベントを立ち上げ、同じ名前のレーベルを立ち上げ、その第一弾として4作目となるオリジナル・アルバム『sky was dark』を同年にリリースする。 アルバムそのものは美しく、しかし、少し抽象的な部分にあえて向かおうとする気概も感じた。それは、同じ“ような”ことをやり続けるのではなく、徹底的に自身の持つポテンシャルとの鬩ぎ合いへと舵を切ること。多摩センター前のパルテノン多摩という郊外施設とコラボし、アルバムからのPV「Floats & Falls」は東京の多摩地区の若葉台や多摩センターを中心とした写真を10万枚くらい継ぎ合わせて作ったもので、彼が編集からディレクションまでやっている非常に力のこもった内容になっている。 「Floats & Falls」MV
街という生き物
「郊外」というモティーフに対して拘る理由として、“ダメだった自分の20代前半、仕事も大してせず貧乏暮らししながら、休みになるとお金がないから多摩ニュータウンを散策し、あの街は開発されているのに人の気配がほとんどなくて、夜になると全く車が通っていなかったりする。だから無人の街に入り込んだような錯覚が起きたり、自分の住んでるところとは違う現実離れした、そんな体験が自分の音楽スタイルや美的感覚に表れている、と言う。ニュータウンやファスト化、イオン化する郊外を、従来の「郊外論」として捉えようとするとき、概ね批判対象の俎上にのるが、はたしてそうだろうか。従来の居住者と、ふと訪れる者のトレード・オフの力学、商業施設の老朽化とトラフィック、高齢化、リ・デザインの問題。また、「郊外」はときに無機に、静かに寝息を立てる生活と、新しい予感に挟まれながらも、緩やかに寂れてゆく、そんな幾つもの連想を育てる。 筆者も、ニュータウンが20年、30年を経て寂れてゆく姿を見ては、悲しさというよりも「街も生き物なのだな。」という気持ちになることがあった。なぜならば、また、新しい、それこそニュータウン計画の看板がどこかにできていて、そこには若い家族と介護施設と娯楽施設と少しの倦怠と晴れやかな生活の場所としてのイメージが描かれているからだ。
過去形は切断されず、今へとつながる
人が減り、その街の役目を終えるニュータウンはしかし、過去形でばかり語る必要はなく、そこに還る安心も担保され得る。「なにもなくなった」街に、景気が良い頃に作った時計台が時間を教えてくれる静けさは悪いものではない。デデマウスは、だから、パーソナルではないが、4作目を境にして、自身のルーツやレゾンデートル(存在理由)にどんどん自覚的になっている。膨大な数のライヴに参加し、プラネタリウムでのライヴ、それに伴ったEPリリース、クリスマスを大切にする姿勢にもとづいた音源のリリース、サンリオ・ピューロ・ランドのキキララ・ショーの音楽を担当。自らプロデュースし、六弦倶楽部とともに、プレフューズ73、スクエアプッシャー、そして、ジブリ作品までをピックし、昨今では、ジブリ作品への想いや自身の回顧記をFACEBOOKのノートに寄せたりしている。2013年11月22日の「思い出らしきもの」というノートにはこういう箇所がある。 他人が自分を演じている事への不快と嫉妬は、それまで積み上げて来た自分そのものが全て奪われてしまった絶望感で、もし入れ替わった人物がどんなに素晴らしい容姿でも、恵まれた環境だったとしても、必死で自分を取り戻そうとしたでしょう。 「現在のデデマウスは過去の彼と比して~」という評を目にするときがある。そして、得てして、多くのメディアに積極的に出なくなったり、独自の路線を進みだすと、ファンや聴き手はアーティストの在り方を再考するよりも、新しいヒーロー(アーティスト)を探すことも多い。このMusiplでは、新進気鋭のこれからのアーティストの紹介から世界中のアーティスト、そして、堅実に活動しているアーティストの再定義を試みようとしているところが混在している。 確認までに、大島編集長は、100レビュー突破記念の取材で下記の旨を述べている。 僕は20年以上レーベルをやってきて、膨大な数のアマチュアバンドのデモテープを聴いてきました。デモ以外に、スカウトのために自らYou tubeなどにアップされているPVを視聴することも多々ある。そうした活動の中で、良い音楽との出会いはたくさんあったけど、条件やタイミングが合わずに契約リリースまでいかないこともよくあります。 CDリリースできないと、良いと思った音楽も結局は世には出ず、埋もれたままになってしまう。才能を発見できる立場にいながら、それをまた埋もれさせるのは、音楽業界にとって大きな損失ではないか? 埋もれている音楽を、何らかの形で人々に紹介したい……。そんな想いが募りに募って、「そうだ、新しい音楽サイトを作ろう」と思いついたわけです。 もちろん、今はアーティスト・サイドからの発信する行為も幾らでもできる。それでも、アーティストだけの力では限界があり、やはり、広告費や経費を考えると、生きてゆくために音楽をするということそのものが難しくもあり、何らかの間に入り、相乗効果として、アーティスト・リスナー・媒体(付随するスタッフ、ライター)がWIN-WIN-WINにせめてなっていけばと願いは筆者も切実にあるが、正直なところ、フィジカルCD(配信も含め)やライヴにお金を捻出できる層と、背反する経済状況の中では「無理」は言えないのも十二分に分かる。
デデマウスというアーティスト名は、知っている人は多いと思う。以前に、ここにて寄稿させて戴いた“『音楽が沈黙しない齟齬』について”という雑考はラフ・スケッチのようなもので、記号的に枝葉のイメージを拡げてくれたらという意図があった。だから、あれだけの文字数で圧縮させたというよりも拡散させた。 今回は、そこから、一人のアーティストを巡って圧縮したテクストを、と考え、そして、Musiplというサイトがこれからより躍動してゆく文脈をささやかに敷けたら、というささやかな望みを込めた。音楽そのものは究極的に非力かもしれなくても、音楽を通じて、夢が見られなくなった瀬ほど味気ないものはない。
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