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「ぼく“ら”の流動性は“ら抜き”で始まっている」

〜小沢健二19年ぶり新作シングル「流動体について」でのよしなしごと〜 文=松浦 達

はじめに)

 あるメディアを通じて、小沢健二から昔ながらのチャット形式で、新曲のフィジカル・リリース発表とその後のメディア露出や、細々したことが声じゃなく文字で語られた。

 「入力中...」

 ハッシュタグと過去ログはもう賑やかで、そして、実際に小沢健二のシングル「流動体について/神秘的」は2月21日~22日に店頭に並んだ。ゲリラのようで、テレビ出演のスケジューリングまで整合性を取るために、過度な角を矯めたような内容で躁的だが、よく考えるに、小沢健二もじきに50歳に差し掛かろうとするアーティストで、二児の父だ。90年代がどれだけ異常だったかは問わない。異常だった90年代の日本で生きた人たちのテンションは違うだけで、それは問題ない。バブルは弾けて、シャボン玉は空の青に同化する。同化した青は海とひっくり返り、どちらでもない場所に「なる」。

 最近、平野ノラさんという女性の芸人をよく観る。過剰に大きな携帯電話を持って、バブル時代の日本を数分の間の固有名詞と妙なセンスの良さでオーディエンスを笑わせる。吉田栄作、デストラーデ。あぶくのように、また今に「戻る」。

 転機詠み。「僕」と「君」で分かれる出遭い、タイム・リープの上の2010年における話題になったライヴは以前にしっかり書いていたりするのでそれは探してくれたらいいとして、此の2017年に小沢健二について考えるのは相応のサバイバーか、無邪気に同時代をシェアしていてよかった、ってモチベーションか、よくわからないし興味もないが、話題になっているか、入力中...それ以外か。それ以外で、保たれるホメオスタシスを大切にしながら、僕はやはり「僕らの世代」みたいな表現に近づけないまま終わるのだろうと思う。ら抜き言葉の弊害だけの「僕の世代」としてに「為る」。

  エブリデイ・エブリデイ・エブリデイ
  物語のはじまりには 丁度いい季節になったろう
  まるで全てが変わるように
          (「暗闇から手を伸ばせ」)

 フリッパーズ・ギターの闇鍋的で、同時代的共振感覚を先取りながら、シニシズムとぼんやりとした世界の破局までも見つめながら、ヘアーカット100、ハッピーマンデーズ、ストーン・ローゼズ、プライマル・スクリームなどを日本のカルチャーの中心部に埋め込んでからのソロでの本質回帰。というのはナラティヴとして、とても在り得る。ニルヴァーナに出会わなかったら、っていうアーティスト、バンドなどと変わらず、小沢健二という人も非常に分かり易い博覧強記の中の自意識のしなやかさを見せる。背景にゴスペル、モータウン、マーヴィン・ゲイ、カントリー、フォーク、ブルーグラスなどがあれども、『LIFE』という作品が日本で、また、たまたま1994年の8月の終わりにリリースされることは夏休みの延長券の獲得者といえて、故・大瀧詠一の1981年3月の『A LONG VACATION』に妙に重ねってくる都市性とともに二重に、ユーフォリックな作品といえた。

 

「愛し愛されて生きるのさ」

 

 TVもまさに全盛期の真っただ中。今みたく配信どうこうではなく、時間に合わせてあちこちで観る。次の日の話題になる。彼は色んなプログラムに出て、ファニーに話し、更には作品も出してゆく。私的な想い出をわずかばかり挟むと、彼の行動が彼岸でそこまで届かなくなって、リリースされた2002年2月リリースの『Eclectic』は大学生協のなかで買ったものの実感がなく、そのままCDプレーヤーに入れて、すぐにキャンパス内の図書館でこっそり聴いた。そういう異分子を囲い込む彼のしたたかなムードに合わせて。


【安心への予兆の並行状態だけをわけあう)】