安心への予兆の並行状態だけをわけあう)
「みんなのうた」は、もうみんなのものではなく、作者の不都合な善意、感謝の錯誤である。として、2016年のツアーでも発表されていたこの「流動体について」は年齢、性差関係なく、若い頃に一瞬でも、雨上がりをまって「君」の住む部屋へと急いだ経験を並列、昇華させ、心身を弾ませもする。その部屋で見た、聞いた諸々とともに。そういえば、ベトナム戦争はなし崩しに始まっていったな、と思いながら、民主や共和やらとはいつでも響きがよくて、ぼんやりとした安心への予兆だけを薫らせる。そしてどうして、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』をモティーフにした『地獄の黙示録』で見えた王国はおかしかったのか、いや、撮影者たるコッポラが引き込まれてしまったふちもあるだろうと思い直したりする。動機は愛に近い霞み、真摯な感情のガラスボウルに注がれた冷製のコーンスープ程度からはじまるのだと思索しながら。ところで、この2017年は世界で何が起こっていた/いるのだろうか。トランプという人が大統領になった、中東情勢が切迫している、朝鮮半島、中国など隣国の状況も何かと起きた、まだまだ懸念の種はアジア、ヨーロッパ、アフリカ、南米、いや、毎年毎年、北極、南極大陸の氷が増えている、減っているなんてにぎやかで。故・星新一のショートショートな―
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でも、「ああ、なにより急がないといけない」のはこの荷物や疲労をとりあえず机に置いて、宿題はまた後にして、楽しみにしていた雑誌を読もう、ドラマを見よう程度なのが大きい。最終回なのか、残念だな、でも、仕方ないなという感覚がみんなはもうそなえている。
泣きはじめると、泣きやむ時期を自分で決め損ねてしまうときってないかい。泣いたことない人生もいい。どこかで泣いているとして。その涙がずっとずっと遠くの家の誰かに届いて、目を覚まし、アラーム設定してなかった時計に気づく人もいる。
おかしいくらい誰もが誰か、気にしながら前を生きている。
静かに、外まで)
「言葉は都市を変えてゆく」という2017年(平成29年)2月21日の朝日新聞の全面広告での彼は、モノローグの連作として、アメリカで食パンがないことと、食パンが自分にとっての「クール・ジャパン」の最高峰近くにある、や、彼の奥さまがいう日本の食べ物ってハイレゾで、世界で最もハイレゾな果物が日本のイチゴだ、や、「当たり前」を叮嚀に連続させてゆく。こんな当たり前を書かないといけなくなっている、また、こんな当たり前を多少なり俟っている人たちが住む世の中は、まだまだ世間(これも、ガラパゴス)なのだろうか。ご近所様にご迷惑掛かるから、が、もうまったく知らない人たちの監視から縄抜けするためのご迷惑掛かるから、騒がないでおきましょうね、うん、わかった、そのあと、公園は静かに子供を影絵にする。海外暮らしの日本の美化と言うのはいつの感覚なのだろう。いついつまでを海(の)外にしていたのだろう、と読みながら、彼も“いいお父さん”になった顔を要所にしのばせる。
余談だが、”恋に落ちることがもうすべてでいい”瀬は絶対条件ではないが、相対論として経済状況はわるくない相補がいる。経済状況がわるくない、というのは心理的余裕がぽかりとできるからだ。だから、全速力で恋に落ちても経済的与件は破綻しない。破綻しても、別の道が見える。この、「並行」する感覚のもどかしさ、がおそらく小沢健二、オザケン、または過去の動画を記号化しても、生存者たちの話を聞いても、「わからなさ」を倍化させ、逆説的に人間の変わらなさをしみじみと思い知らされる。一日数百円などの食費を切り詰めて生きている人が、日本でそれなりにハイブロウな教育を受け、いい環境に居て、ハイレゾなイチゴは遠い世迷い事だったりする瀬での数学的、美的とはなんなのだろう。
闇の中へ高く飛ぶ華やかな緑 恒河沙永劫無限不可思議を超える 陶酔を待つ魔物たちがいるところまで 鍵を壊し檻を開け蘇らせてゆく炎 (「神秘的」)
炎の面だけをとらえるならば、過去のこの曲もいい。牧歌的な時代のひとつの終わりの余韻で。
「指さえも」
以前、ぼくの友人が飛行機に乗ること、パスポートの敷居が低くなり、円安や宿などの関係で日本にようやく来られることがあった。場所は伏せるが、遠い、いわゆる海外に住んでいて、スケジュールはもう見事に、京都、東京、福岡、北海道、これを一週間ほどでまわるの、ってもので、その友人はだって「日本は遠いけど、狭いじゃない」と、こともなげにいう。遠いんだ、でも、狭い。ここが今回の小沢健二の「流動体について」、または口直し的に添えられた「神秘的」という曲の難しさがある気がする。
もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら? 並行する世界の毎日 子どもたちも違う子たちか? ほの甘いカルピスの味が不思議を追いかける だけど意思は言葉を変え 言葉は都市を変えてゆく 躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼 彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く (「流動体について」)
明瞭な“詩的な”詩で、カルピスが飲みたくなる、という人も出てくる、として、カルピスもまたガラパゴス。日本のひとつの象徴で、南国のモールにカルピスが進出したって、まあ、マンゴー風味などで甘い。カルピスウォーターが成立する日本も、クール・ジャパンなのだろう。「美的過ぎる」ほどに、この世界はそうのんきではない。
のんきでいられる条件付けが変わってきている。その変数が違うのに、延々とやり取りをする並行する世界の毎日は、芝生の復讐に耐えられるのだろうか。僕も歴史の行方や、元来変わりっこない人の微々たる祈りの様な想いと愛、慈しみのような何かを信じている。見送るための準備とともに。その頃には都市側が言語の統一化を企てている。そのときに、また聴き直してみたら、カルピスって飲み物があったね、って昔話で笑える、と信じながら過去の、過去のもっと未来を向いた真ん中を生きていて、生活が完全に再び戻ってこなくても、規模が違っても、「良いこと」を決意する時を、彼は今あえて進もうとする。時に。越境者たる矜持を詩に添えて。「入力中...」