喪失した夏のあとに
ここでは、“夏”という象徴記号を過去から描写してきたことを触れておきたい。彼ら以外でも、ビーチ・ボーイズ、ドアーズを始め、日本でも言わずもがな、サザンオールスターズもそうだが、夏の昂揚と去りゆくモティーフを歌に刻んできたアーティストは多い。夏は、華やかゆえに儚く、じわじわと夕暮れが短くなってゆくと、寂寥をおぼえることもそれぞれにとってあるのだろうし、夏にしか結えない体験もあったり、季節としての、以外に、外延する。「Summer’s Gone」、「ナツマチ」という曲も彼らにはあったが、「モナリザ」という曲で貫かれる情景はどうにも狂おしい。
何もかもが / 変わってしまったと / 君は / 言うけれど 生きることは / 変わって行くことだ / 恐れずに / 踊ろう
さよなら / 恋しい夏の日 僕に / 残されている夏は / あと何回? / 星空に / 武者震い /
恋しい夏の日にさよならを告げて、自分に残されている夏はあと何回、と問いかけること。自分に残されている季節を考えてみる行為は悪くなく、ましてや、こんな時世に、それでも、生きてゆく過程に踏むステップは止めることはないのだと個人的にも思う。 俯き過ぎると、空の雲の変化に鈍感になる。見上げた星空に武者震いするくらいが愉しい。ゆえに、喪失の対象としての夏を経て、「音楽が / 憂鬱 / 蹴るから」とも同曲で歌われる。音楽は目には視えず、お腹は膨れず、無力かもしれない。それでも、感情や日々の生活に確かな彩りを寄与せしめる。
想像の都市を駆ける
また、昨今の隆盛している日本のシティ・ポップ、一十三十一、cero、かせきさいだぁ、森は生きているなどとの共振する空気も特徴的だろう。例えば、janの作詞・作曲「ポカホンタス」もそういった系譜に並び、スムースで流麗な解放感を持つ。シティ・ポップで仮想される景色は、カオティックに同形質を余儀なくされる都市でのひとつの夢を視るための想像力を試すようなところがある。夜の首都高からの摩天楼へ、ということは、忙しなく切実な現実からささやかなロマンティシズムへの再規定の幅が生まれる。その幅を往来し、多彩な曲群を孕み、「どこまでも行ける気がする」(「砂時計」)と駆け抜ける。
最後に
このMusipl.というサイトの編集長大島はインタビューにて下記の旨を述べている。
“たとえばmusiplでは、売れないアマチュアバンドだけを紹介するわけではないんですよ。メジャーにいても宣伝費をかけてもらえずになかなか知名度が上がらないアーチストもたくさんいる。そういう人たちも紹介していきたいし、場合によってはミスチルやサザンの音楽を紹介してもいいとさえ思っています。大事なのは音楽が好きなリスナーが新しい音楽に出会える場所を提供するということであって、妙なこだわりで何かを排除するというのは避けたいんだよね。”
プロデュース・ワークで片寄明人、客演での白根賢一、jan&naomiや踊ってばかりの国など同世代のミュージシャンたちとの中でのjanを見受けたりする人も、GREAT3という名前を知っていたけれど、どんな音楽かよく分からないという人でも、ずっと彼らをコアに追いかけてきた人でも、『愛の関係』は大らかに受け入れてくれる音楽の持つスリリングな贅沢さに満ちていると思う。
2014.3.17.寄稿
GREAT3 - 「愛の関係」ダイジェスト映像
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