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さよならポエジー
『二束三文』

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 自己肯定感が生きるには必要だ。そんな言葉を最近よく目にする。高度成長期にはよく言われた上昇志向は、出世こそが人生という意味で、故郷に錦を飾ってやろうと多くの若者は心に誓った。だがそれは戦後の焼け野原という本当に何も無い国の、世界経済の中で右肩上がりになっていくという潮流に国全体で乗っかっただけの当然の「成功」で、だから本人の努力とは無関係のところで、頑張って堕落する努力をしさえしなければ自然と行き着く結果でしかなかった。だがバブルがはじけて堕ちることの無い経済発展も終焉し、10年だか20年が失われたとか言われながら、その失われた何かが取り返されるような気配は一向にない。確かに株価は上がっただろうが、大企業の内部留保は増えただろうが、株価は将来の懐から国債という形で借りてきただけのことで、上昇した株を売り抜けて儲けた海外投資家の儲けを、この国の将来の人が支払うことになっていくし、大企業が溜め込んだ内部留保の大半は、人件費カットという形であおりを食った若い非正規労働者が本来もらってしかるべき金を溜めているに過ぎない。オッサン世代は見ることができた将来の夢と同等のものを持てるのだと考えているのなら、今の無力感を理解することなど不可能だろう。神戸から出てきたロックバンドさよならポエジーが歌うこの二束三文という歌が、聴いていて心に刺さる。「それなりの才能で、オレはオレを救ってやろう/苦悩の割に実りの無い、そんな普通を愛している。」人生は、バブルな成功によって支えられるのではなく、普通の中に在る自分の普通を肯定することで支えられる。多くの人が人生に悩み、何かに裏切られたと感じ、自分を自分で追いつめていく。自己を肯定するというのは、理由なき自信でしかない。社会的成功などにその理由を求めていけば、どこまでの成功なら肯定していいのかという問いにまた悩むことになる。だから、それなりの才能で自分を肯定するべきだし、普通をこそ愛すべきだ。そんなことを、やる気なさそうな体で彼らは歌ってくれている。MVのオサキアユは本当にやる気なさそうな感じで歌っている。喉を見ると、あまり動いていないように思う。撮影の時には小さな声でもいいからちゃんと声を出していないと、喉が動かずに不自然な映像になる。だから、僕はこのMV撮影時に彼は声を出していなかったのではないかと思っている。だが、この曲の持つ「それなり」の意味を考えると、ディレクターにいわれて無理に声を出しているよりも、喉があまり動いていない不自然の方が、逆に自然なのではないかという気さえしてくる。何に対して頑張るのか、何を自然と考えるのか、何をもって成功というのか。そんな問いに対して無言の、声なき抵抗のような気さえしてくるのだ。
(2017.6.30) (レビュアー:大島栄二)
 


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