地球のはじっこ『ないものねだり』
POLTA『エンド オブ ザ ワールド』
CORNELIUS
『Drop-Do It Again』
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よく通る、ある場で横断歩道を渡る人を跳ねたという耳伝えだけが届いて、違う日にそこを実際に通れば、花束が電信柱に置かれてあった。別次に、乗っていた電車で人身事故があった時は振替輸送のため、導線を再確認していながら、みんなはリアルタイムで即時々に「何か」をディスプレイに無言に指先で呟いている。前述の花束は強風で飛ばされたのか、すぐになくなり、ダイヤは平穏に戻り、「なにごともなかった」かのように日々は続いていった。それをして「引き算の美しさ」と称した異国の友人が居た。彼は、また、 こちらがインフレ化と商業的な肥満状態に為りつつある”KYOTO”について話していたとき、それでも、「日本独自の細やかな引き算の美が凝縮されているからだよ。」と事もなげにかえす。デザイン型対話の中でふと、感じたのはむしろ、規制や何やら足し算がエスカレートしているかのようで昔のような、自由はない、と思っても、その「昔のような、自由」は本当に自由なのかということに立ち返れば、おのずと、「規制でしか伝えられない」カルチャーを弁えていたのが和歌、短歌や俳句の技法であり、そこに本懐はあるのではないかということで、そうすると、日本が「うつろい」に対して鋭敏なのかに興味深く考える異国の視座が多いのも解る。ぎっしりと行間を埋め尽くし直截的なものを求めるばかりではなく、改行の、ときの余った場所に。入り込める感覚を分かろうとして、わざわざ飛行機で小さな島国の小さな庭を、小さな、そのまた小さな町屋を見に来るのかもしれない。
”引き算の美”で、私的に想い出したのは、この水のあわぶく音色、絞られた言葉、枯山水(KARESANSUI)的な趣き、コーネリアスの今曲だった。映像演出の美含め、いまや彼は世界的評価の高いアーティストの一人になり、リミックス・ワークから最近ではMETAFIVEへの参加まで90年代、00年代、10年代を多様に果敢に渡り歩いてきている。しかし、元々はとても情報量の多い音楽をやっていた。フリッパーズ・ギターでの活動、多くの音楽的語彙のパスティーシュで固めた当初のソロ・ワーク、玩具箱を引っくり返したような『ファンタズマ』でのめくるめく音楽風景。
以降の、断片的に絞られた音、この映像内における2分33秒で可視出来る咳き込む音まで取り込みながら、音像だけでなく、より映像面でも子供やシャボン玉、渡り鳥などのモティーフとともに身体反応や自然の中に想像を忍び込ませた風情に添っていった。それだといって、「シンプルになった」というわけではなく、細部まで音の位相は凝り、より複雑な余韻が残るムードと実際のライヴでの背後の映像との共振性の高さは五感を刺激するものになっていった。
情報量の膨大さと、足し算の中で積み上げられてゆく名もなきバベルの塔の先に、またはビッグ・ブラザー的な不穏な騒々しさが垣間見える向こう岸で、饒舌にどこかの長が矢継ぎ早に大声のスピーチを繰り返すような今こそ、静けさや引いた場での小さな声色に今一度、耳を傾け、察知、再考してみる動機(-Do It Again)が必要なのかもしれない。
AH 世界 広い みたい
(2017.2.4)
(レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))
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