中ノ森文子『いつも外から』 Next Plus SongAkira Kosemura『虹の彼方』

椎名林檎
『青春の瞬き』

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 今でも天才だと思っている。だが、椎名林檎は最初の頃に抱いた天才への期待を未だに超えていない。それは大きな期待を抱く側の罪か、それとも持てる才能を出し切れずにいる側の罪か。はたまたそんな期待を抱くには足りぬ凡才でしかない者の罪なのか。その場合は凡才に罪は無く、無理な期待を抱いたりする側にのみ罪はあるのだが。

 大晦日に、紅白で椎名林檎がこの曲を歌うのを見た。東京都庁からつり下げられて降りてくる2人の女性。それはMVで椎名林檎自身がつり下げられているような浮遊した姿を見せていたのを彷彿とさせた。その後通行人かと思われた行き交う人たちが制止し、プロジェクションマッピングが巨大ビルの壁面に映し出される。その様は、昨年夏にリオデジャネイロで見せられた2010TOKYOのパフォーマンスを思わせる。壮観だ。だが、それが椎名林檎に期待した何かなのか。否。そうでないなら、期待したものにあと何か足りないそれを補完してくれるのか。否。何が足りないのか。そんなことがわかるなら苦労など無い。見ているだけ聴いているだけの凡人にわかるものか。だが、足りないのはわかる。椎名林檎本人はどうなんだろうか。足りないと思っているのか。才能の全てを完結した表現を成したのであれば、才ある者なら表現を終えるだろう。表現を完結したにもかかわらず続けるのだとしたら惰性に過ぎない。惰性などに身を窶す者は才人ではない。それこそがまだ今も椎名林檎が表現を続ける理由なのだろう。

 デビューしてしばらくして、椎名林檎は表現を続けることが出来なくなっていた。才能があるが故に大きな期待を背負い、それを重圧として潰れそうになっていたことは容易に想像できる。才能の無い者はいくら頑張っても何も残せないが、才能を持つ者は何かを残せるが故に期待に苦しむ。そんな彼女をビジネスの側が止まることを許さない。そこそこの技能ある者がサポートすることで、形を変えながら活動を完全に止めることなく今に至る。そして彼女の表現は様々な力を借りてどんどんと巨大になっていく。だが、大晦日のプロジェクションマッピングそれ自身が悪いとはいわないが、それが彼女に期待された何かを補完することなどは無かった。見栄えとしての補強をしていただけなのだとしたら、そこに僕らは何を見て、何を聴くのだろうか。おそらく、それを続けていけば才能は期待の場所に到達することは無いだろう。音楽が才能が、巨大なビジネスになるのは自然なことだが、巨大なビジネスが参加者それぞれの思惑で右手を引っ張り左足を引っ張りする。それによって個の自由な表現がもうまったくコントロールできず、身動きさえ取れないという事態に至ることは、なんとかならんものなのかなあと思う。本当に思う。まったく赤の他人の僕のようなものがどれだけ思ったとしてもそれすら雑音に過ぎず、そういう雑音が才ある者の周辺にはゴマンと蠢いているのだろう。だとするとこんな駄文など書かずにおればいいものをと思うけれども、才あると期待するが故に何か言いたくもなるし、周辺にいる人は綱引きもするのだろう。それと闘うことが表現の道を行く上で必要なのだとすれば、自由な表現とはいったい何なんだろうか。

 それでも、続けることだ。どこかで綱引きによってバラバラになり、止まってしまってはそこで終わり。期待が、才能が、それで頓挫する。いつまでも続けと願うこともまた表現の枷になるという皮肉は理解しながらも、個がやがて自らの自由を手にすることを、届かない声として切に想う。時よ止まれと願ったところで、時の方が止まるわけはないのだし。

(それにしても、このリンク先の動画は早晩削除されることになりそうだ。その時はオリジナルのMVと差替えるしか無いだろうが、それまでは当面コレで。)

(※動画が削除されていることを2018.4.24時点で確認しています。レビュー文面はこのまま残しておきます)
(2017.1.7) (レビュアー:大島栄二)
 


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