ロクトロン『Realize』
王舟『あいがあって』
下田逸郎
『この世の夢』
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なんという声だろう。なんという歌だろう。下田逸郎のうたう歌はひとつひとつの言葉をはっきりと発音して歌うといろいろなところに書いてあるけれども、きっと、そんなことは結果論であって、彼自身がそれを自分のポリシーやスタイルとして意識しているというものではないのだろうという気がする。人間が自分の表現を設計図通りにコントロールして作れるのだと思うのは工業製品が蔓延する時代に暮らすことの弊害だと思う。デパ地下に行って名店のお菓子を買おうとする。ちょっとの瑕疵があってもダメなのだと幾重にも包装されたその小綺麗なお菓子は、そうやって形を1万個作っても同じ形になるように作るためにどれだけの無駄が起きているのか。京都という街に暮らし、街の和菓子屋さんを覗いてみると、オッサンが手作業で饅頭を丸めている。職人だからどれもこれも同じ形になるけれども、厳密に言えばそれらはすべて別のものだと思う。それを買う。そこには均質なモノという価値よりも、人が作ったものという価値が多いように感じる。歌手はいつも喉の調子を気遣い、プロだからベストのパフォーマンスができて当然と客も思っているし本人もそう信じようとしているが、本当にパフォーマンスというものを知っている歌手であればあるほど、ステージに上がる前の足は震えている。ベストが出せるものだろうかと。観客の期待に応えられるのだろうかと。下田逸郎という人の歌は、そんなところから既に離れて、いや、これが自分の歌なんだよと言い放つ人の何かが感じられる。歌を歌うということの偶然性と、そして期待される必然性。でも、結果こうなるのは仕方ないじゃないかと。それは諦めとは違った、現状肯定のようだ。歌も、職人が作る和菓子のようにすべてが違っていて、でもひとつひとつを美味しく届けたいという、変化の中の不変のような、そういう境地をこの歌に感じたりする。
(2016.1.16)
(レビュアー:大島栄二)
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