高野寛『dog year good year』 Next Plus Songヒグチアイ『ココロジェリーフィッシュ』

Masayoshi Fujita
『Tears of Unicorn』

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 小さい頃によく行った遊園地にはビックリハウスというのがあって、中に入って、ある台の上に真っ直ぐ立ってみると、鏡の中の自分は「斜めに立っている姿」が映っていたりした、「錯覚」を利用した簡単な仕掛けのものだったが、その感覚を全く別の場で今、想いだすことがありながら、最初から斜めを保つ関係力学がひとつのセクションで共鳴し合うように、話し始めた機会に出くわすたび、客体的な参加者が徐々に主体になってゆくプロジェクトの見え方が面白くてならないときがある。例えば、フード・サイエンスの話から、シンギュラリティ、サイバネティクス、ヒディン・マルコフまでが茶話がてら行き交いながら、「ここに緑茶のボトルがある。じゃあ、この緑茶はずっと緑茶で維持できるためには、ボトルを無くさないといけないのじゃないか。」みたいな帰結点でその場の人たちが得心し、各領域に持ち帰ったりできる瀬はとても健康的だと思う。ボトルなき、緑茶が会議卓で躍るような、それが飲めるのか、飲むべきではないのか、分からないという分かり易いフェイズから始まっているとして、より新たな発話者の再想から世界を覆うどうにも重い空気を抜けてゆく表現がどんどん出てくる予兆には無邪気に胸が躍る。

 彼の音にも、そんな魅力を感じる。ベルリン在住のヴィブラフォン奏者であり、今年のセカンド・アルバム『Apologues』では当該楽器をメインに、ヴァイオリン、チェロ、フルート、フレンチ・ホーンの楽器本来の性質をそのまま活かしながら、より宏大な音の抒情詩を描いてみせた。

 それにしても、この映像/音像から伝わってくる要素群には興味をそそられるところが多い。ヴィブラフォンがエコーし、また、新たな音色が更に重ねられ、ズレてゆく間の震えた空気から発生する音色。そこにはもう終わった音があるが、音が途切れ、終わっているのではなく、“続くための音”が用意されているみたく―。まるで、小さな雨垂れが水面に幾つもの波紋を拡げ、その波紋同士が混ざり合い、融和し、ときに弾き合い、また、新たな雨粒によってそれまでの一定のパターンを変えてしまうのと似て、この曲から与奪される時間感覚の中で、聴き手たる参加者から、この音の内側での主体に”なる”みたく、ふと考えさせられてしまう。その感覚を「今」とするならば、誰もが最大公約数的に共有できる拓けた外側の今など実のところ、ないということを教えてくれるようで、感慨深くもなる。
(2015.12.14) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))
 


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