lifter『君の透明』
Julian Casablancas+The Voidz『Where No Eagles Fly』
湯川潮音
『家族のうた』
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ジュディス・バトラーの著名な書籍のひとつ、『ジェンダー・トラブル』は1990年に刊行されたのもあり、時間差含め、その後の精緻な検証はいるが、個人的に、女性の生物性/文化性、欲的な性までの何軸かを横断する、せざるを得ないセックスに関して言及したことにいまだ意味はあると思う節はある。
しかし、翻るに現在の日本では、多様な言い方はあれども、メディア用語として
「絶食化男子」などという記事
が標本数とデータ、研究者の意図などの問題をメタ化したうえでも、多くの注視を浴びるとなると、「性」とは男女の固定性をより融化せしめ、同時に、ジェンダー論は更に先に向かうべき<外部>へと向かうのではないかという気さえする。どんな形でもジェンダーとは権力側の要請としてそうなっていたとしたならば、少しずつ異性愛、異性愛以外、または純愛の中心部を空洞化してゆく潮流が強まっているのかもしれない。
また、フィメール・アーティストが「ぼく」という主語を用いて歌を紡ぐ際に、浮かび上がるはフェミニズムの捻転性より、生きる性としての女性が単位として「ぼく」を選ばないといけないのではないかという感覚が強まる。性染色体の話は周知かもしれないが、XXが女性、XYが男性であり、元来、XとYの遺伝子は相応の数を備えていた。悠久の時を経て、今では、Y染色体は消滅の危機にさえあると言われている。永い歳月の中ですぐにY染色体は即座に消えないがしかし、そういう実態はあちこちで起き得てゆくだろうということ。
そんな中、「ぼく」にも「母性」にも「恋愛的な何か」にも寄りかからず、湯川潮音のこの歌は女性としての感覚がのびやかに、「家族」という現代では最小にして、脆くも確固たるユニットの可能性、意義に向けて届けられている。曲調はチェンバー・ポップといえるだろうか、そして、過激で過剰なリリックより穏やかで慎ましやかな抒情が紡がれ、最後までスッと聴ける。純然たる一曲というより、信濃毎日新聞の企画や他のこともこの機会に掘り下げて戴いてもいいと思うが、新しい年が明けてからも混沌としている瀬に、この唄は非常に優しく響いてくる。
信濃毎日新聞に集まった多くのおじいさん、おばあさんの“明るい遺言”、多くのジオラマ模型を約1か月かけて、一つ一つ撮影した写真を繋ぎ完成させたMV―こんな温度で守られる絆から紡がれる未来的な視座の行間にこそ、博愛的な何かは性と自然と結びつきロールしてゆくのではないだろうか。
後半のハミング、コーラスの中には上述の附箋群、老若男女、また、ジェンダー的なものをトランセンダントした、普遍たる「家族」というレゾンデートルに共鳴するような感覚をおぼえてしまう。世代、血脈を経て、受け継がれてゆく感情は歌にのせて、草の根的に航続していけば、とささやかに思う。
(2015.2.10)
(レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))
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