ライブ・レポートは後日に、ということになりますが、今回は表題のとおり、あくまで序文、インタルードとして届けたいと思っております。これは、ひとつの連作記事の一環でありますので、具体的な内容といいますよりも、ベースは汲み取って戴ければ幸いでございます。
1)
今でこそ、世界中でロック・フェスティバルが行なわれるようになり、楽しみ方も千差万別になってもきています。会場でも多彩なステージに分かれ、総合アトラクションのように楽しむことが出来て、訪れた人たちもフレキシブルに地図やタイムテーブルを観て、宝探しをするように、メモをしたり、マークしたり、勿論、目当てのアーティストの時間帯はどう過ごすか、考えたり、靜かな悩みがあちこちで溢れるのも良い風景です。日本だと比較的、海外のアーティストの来日する間隔が短く、観ることができる機会が多くあります。でも、単独公演はそう安くありません。10,000円ほどのチケット代を払って、グッズを買い、となりますと、何物にも代え難い経験と、本当に好きなアーティストのライヴの場に居ることができるという大きな意味以外に、集中と選択の問題も出てきます。その点、フェスでは多くの(自身がよく知らない)アーティストも出ますし、そこで世界の拡がりを感じることもあるでしょうし、ずっと邦楽しか聴いてこなかった子たちがある海外のアクトが終わりましたら、そのアクトのグッズ売り場に並んでいた、というようなことは珍しくなくなりました。
地球儀を廻せば、極端にいえば、どこの地域の音楽を聴くことができるようになり、先日は峻厳さを極める中東の紛争地の映像の中のラジオからファレルの「HAPPY」が流れていました。何だか、あの曲のイメージとその現実に乖離を感じず、想えば、有名な映画で、河の上流を目指すときの舟ではストーンズが流れていましたり、百貨店に入っているクールなアパレル・ショップでは爆音でEDMが場をハイに盛り上げながら、時代と音楽は混線しつつ、なお、交接するというのも時おり想います。
2)
グローバル化が喧しい状況下で、中心(center)と周縁(periphery)への概念への理解の導線も要る瀬です。日本では、昨年に逝去されました文化人類学者の山口昌男の1975年の著書『文化と両義性』(岩波現代文庫)の存在が大きくあるといえます。
彼は、アメリカの文化人類学者のヴィクター・ターナーのワークスに触発された形で周縁性の象徴を考え始めました。最近、ジェントリフィケーション(gentrification)という言葉を見る機会が増えた人も居るかもしれません。都市の再生計画、地方都市の再整備、政府のまち・ひと・しごと創生本部などの試みで、求心性を持たざるを得ないcenter、とperipheryとは象徴的関係でもありながらも、ターナーが構造の問題とするにもまた違う、相互性の内部の文脈の切断、再接続を行なうには結果的に、補強されるのは外部としてのセンターとなり、それはロラン・バルト的な“空虚な中心”ではなく、異国の方が日本に求めるのは“濃密な情報量を持つ中心”であったりするように、二分線では語ることができない偏向も含みます。
では、論を急ぎ、“周縁”は荒涼としてゆくのか、という問いはいささかペシミスティックだと思います。スポーツの世界大会で靡く国旗を観れば、複雑にして、歴史の重みのような何かが迫りもします。幾つもの春を越え、難題が積み上がったとしましても、地均しされる道により、様々な価値観を持った人たちが往来できるようになった過程で、失われることばかりでもないのだと思います。
3)
日本の人気観光都市では東京と拮抗します、京都。
“COOL JAPAN”の象徴として、首都、東京の圧縮されました情報量は魅惑性を帯びているのでしょうし、別途、京都は古来の伝統を保ちながら、積極的な観光推進施策を行なっているのもあり、皆が求めるものに対してのホスピタリティは急速に上がってきてもいます。多言語対応は当たり前になり、アプリと対応して自在性を確保したうえで、敷居を低くできるところは出来る限り低く設定され、愉しめるプランニングは過去10年からしますと、驚くほどです。しかし、自在性と併存して厳しい規制がかかってゆくことで味気ない景観と画一性、ある種の特定な記号性も止むを得なく生まれてきています。
そんな、京都の梅小路公園で年に一度、行われますのがくるりが主催となりました京都音楽博覧会です。2007年に始まり、今年で実に8年目を迎えます。先述した中心/周縁に対して、象徴性でも構造論でもなく、新たな価値定義をしてゆく(元々あった価値、慣習を丁寧に再定義してゆく)エクスポともいえます。小田和正、石川さゆり、矢野顕子、細野晴臣、奥田民生などの日本のビッグ・ネームから、気鋭のバンドやアーティスト、更にはアイルランド、ルーマニア、ナイジェリア、オーストリア、スウェーデンといったUS、UKだけではない多くの国からのアーティストもごく自然にそのステージに並びます。
ライヴ・レポートで各アーティストには詳しく触れたいと思いますが、この8年目の色彩はくるりの新作『The Pier』と呼応し合うようになっていると感じます。筆者としては、レバノンのヤスミン・ハムダン、UKのペンギン・カフェが楽しみなものの、ここで初めて彼女、彼らの音に出会う方も含めて新しい空気感が起こってくるのも、毎年、この京都音楽博覧会のひとつの醍醐味です。
Yasmine Hamdan「Deny」
Penguin Café「Soraris」
【京都音楽博覧会 OFFICIAL HP】