RAF『世界』【明日は決定しているのではない。今日は決して続いてはいかない】
日常が100%満足で充足しているのであれば、旅にでる必要なんて無い。満ち足りているようでも、気付かないストレスに晒されていて、それで非日常を味わいたくて人は旅に出る。そういう旅は、またそこに戻ってくることを前提にしている。ストレスから一時的に解放されたいのだけれど、それでもそのストレスのある日常は戻ってくる価値のあるものだ。
しかし世の中には帰る場所のない旅というものもある。いつか帰ってくるよと周囲には伝えつつ、帰る気などさらさらなく。あいつはいつ帰ってくるんだろうななどという言葉が風の噂で聞こえてきた時、ああ、住んでいる世界が違うのだなと感じたりする。
生まれ故郷でずっと暮らして一生を終える。それができるのはある意味幸せなことだ。そういう幸せな生き方をしている人は多い。しかし一方でそういう生き方から押し出されるようにどこか別の場所、というよりまったく別の世界に漕ぎ出している人も少なくないのだ。その場合、漕ぎ出した先で新たな安住の地を探そうと努力もするが、結局は再びまた押し出されるように旅に出る。暮らしている瞬間瞬間にはそこが安住の地だと確信しようとするものの、結局はいつかその確信に裏切られ、安住の地だと信じていた場所を捨てることになる。そういう日々を、浮き草のようだと僕は思う。
生まれた場所で生き続ける人には信じられないかもしれないが、浮き草のような人には世界がまったく違ったものとして見えている。目の前に広がるのが当たり前の世界だと信じられる人と、そこに留まることなど有り得ない世界だと見えてしまう人と。同じわけがないのに、人はそのまったく別の世界の中で共存している。それを共存と言ってしまっていいのかどうかはわからないけれども。
同じ日々が永遠に続くと思っていたのに、自分ではコントロールできない事態によって明日がどうなるか解らなくなる。ついこの前まではそれを理解できる人と理解できない人がいて、多くの場合明日を不確定にする事態は個々に違った説明しづらいものだったから、他者に理解を求めることさえ難しかった。だが、どうだ。明日が読めずに暮らすことを余儀なくされているのはもはや大多数に共通なことになってしまった。もちろんそれはおおいに不幸なことのはずなのだが、一面にはこの不確実性への不安をすべての人の共通語として獲得したという点で、幸せなことなのかもしれない。
この曲はそういう押し出される瞬間の自暴自棄ともいうべき切ない感情に満ちていて、すごいなと思う。
なんと個人的なことだろう。関係ない人からすればなんとちっぽけなことだと感じられるかもしれない。理想的な優等生で学生生活を送ってきた人からすれば、そんなの自己責任だろで片付けられる類いの話だ。しかし、卒業できないという事実が突きつけられた若者の絶望感は想像に難くない。自分に責任がないことで追いつめられたのなら開き直ることもできるだろう。しかし、明らかに責任はあるのだ。そのことは自分でもわかっている。だから、辛いのだ。その場から逃げてしまいたいと思う。逃げなくても、昨日まで一緒に遊んでた仲間たちが自分を残して卒業してしまったら、もう同じ日々の中で息をすることなど不可能だ。
そんな第三者からみて些細なことから始まるからこそ、この曲の切なさが増幅されているのだ。明日は決定しているのではない。今日は決して続いてはいかない。この曲を聴きながら、男女のツインボーカルがまったく違ったトーンで空気を切るように淡々と進んでいく流れに、忘れていた自分の浮き草としての意識がめくられるような気分にさせられた。
(2020.5.12) (レビュアー:大島栄二)