PELICAN FANCLUB『Amulet Song』
【お守りの歌という意味を持つこの曲が、次の一歩を見守ってくれる不思議な力を】
歌詞をよく読んでみる。歌詞なんて曲とセットで成立するものだから、メロディーやビートを抜きにして言葉を追うことのなんと虚しいことか。しかしながらこのサウンドに身を任せて断片のみを拾うようでは、この歌詞に込められた意図を受け取ることはできないのではないかと心から思ったのだった。
君の覚悟を問うている。そのうえで革命もどうだと軽めに促している。革命って一体なんだ。そんなものを促すのは何故だ。もちろん明確な答など用意しない。それぞれが感じればいい。サウンドに身を任せて思考を停止するのもいい。思考を停止できるくらいにこの曲は軽快で爽やかだ。それは便利と清潔に満足して日々を思考停止することを許している都市生活のようだ。
しかし、そんな快適な曲の中で彼らは問うている。
人は自分だけで生きているわけではなく、大勢が暮らす都市であればなおさらそうで、大勢が暮らしている故に存在する大規模で効率的なインフラが僕らの暮らしを支えている。思考を停止すればそんなことなど意識せずとも自分の希望に従って生きていくことができる。それは支えられているが故に便利で、快適だ。しかしその便利や快適を享受するということは、否応無く都市のルールを甘受しているということでもある。
それは極めて複雑で、脆くて、無慈悲だ。
そんなことをこの1ヶ月程度の日々でイヤというほど味わった。誰もが従うべきルール。それ無しに生きるインフラを利用することは叶わない。非常時という共通認識の基に、自由など存在が許されず、自由が許されなければ存在の持続すら危うくなってしまっている。常時と非常時が表裏一体である以上、絶対的だと信じていた自由もまた不自由と表裏一体なのだ。そのことに今更ながらに気付かされる。
シンプルなルールはシンプルであるが故に、すべてをきめ細やかにフォローすることなどできない。誰かが通行するための青信号は、同時に別方向の通行を遮断する。誰かが生きるために誰かの生を止める可能性があるのがルールだ。1分程度で交互に青と赤が変わるなら享受もできよう。しかし誰かを生かす青信号のために自分を停める赤信号に、1ヶ月2ヶ月止められたら、それが1年以上続くかもしれないと予想してしまったら、誰がルールを信頼して甘受することができるのだろうか。
そしてそのルールは誰がどのようにして決めているのだろうか。
さらなる延長を発表する時に、「新たな日常」に移行していかなければならないと為政者は口にした。賛否はともかく以前そのままというわけにはいかないだろう。ではその際に何を基準にして新しい生き方を選べばいいのだろうか。引き続き誰かが作るルールをただただ信じていくも善し、何かを考え自分なりのルールを見出して進み始めるも善し。本当に善しなのかなど誰にもわからず、しかしただただ立ちすくんでいるわけにもいかない分かれ道において、誰もが考えることを避けることができない、そういう時代に突入していくのだろう。
この曲が作られたのは新型コロナウィルスが大問題になる以前の話で、だから現況のことなど考慮されているはずもないのだが、聴いていて恐ろしくなるほどの切実さで今を生きるすべての人に迫ってくる。それは要するに、現況のような事態に至らなくとも自分で考えることの重要性というのは以前から存在し、そのことに気付いた人から思考を行動を起こしていくべきなんだよと提示していたということなのかもしれない。次に起こる新しい時代。それがどのような時代になるのかなど誰にもわからないものの、そこに向かって誰もが考え一歩を踏み出さなければならないとしたら、『お守りの歌』という意味を持つこの曲が、その一歩を見守ってくれる不思議な力を持っているのではないだろうか。
(2020.5.5) (レビュアー:大島栄二)