鈴木実貴子ズ『問題外』【少数派からの悲痛な声を代弁するように歌うマッチョな歌】
個人的には女版長渕剛と思っている。それは音楽のサウンド的メロディ的リズム的なものを押し出して表現するよりも、歌詞の中に込めたメッセージを押し出して表現することに大きなウェイトが置かれたアーチストだからだ。だったらメロディなんてつけずに詩人として表現すればいいだろ的な人もいるけれど、音楽的な部分で手を抜いたりはしない。そういうところも長渕剛と通じるところがある。
それでも「女版長渕剛」なんてことをいうとファンの方々や場合によっては本人からも怒りを買いそうで怖いが、このまま先に進めよう。もちろん違いもある。当たり前だ。長渕の歌詞メッセージがかなりマッチョなものであるのに対し、鈴木実貴子ズの場合はかなりインナーに向いた毒である。マッチョなメッセージは正論であるが故に、言葉にすることで自己陶酔することができる。多分。その言葉を高らかに歌い、ファンも一緒に合唱することで、高揚するエクスタシーがある。だがインナーな毒は最大公約数的な正論ではないので、人前で言葉にすることがはばかられたりするし、意を決して口にしても周囲からは眉をひそめられたりする。だが人の価値観は多様なもので、昨今は遠くに暮らす会ったこともない人と共通の価値観によって結びつくことが可能になっているので、40人のクラスでは出会えない誰かと一緒にこういった毒について「そうだよね、そうだよね」と語り合うこともできる。良い時代だ。
まあこの曲の中で「価値観なんて関係ない」と歌っているので価値観について触れること自体ナンセンスに見えるが、そうではないと思っている。価値観や法律や宗教といったひとつの価値体系があって、その価値体系に属して心酔している人にとってはそれ以外の基準がすべてまやかしに見えるし、それ故に誰かを傷つけることにも疑問を持ち得ないという結果になる。心酔できる価値観というのはだいたいにおいて多数側で、だから数の力を正当なものとして行使することができる。それはある意味マッチョな側の暴力であり、鈴木実貴子ズの表現するのは少数の側からのメッセージなのだ。だから、音楽的手法の点では女版長渕剛が成立したとしても、その立ち位置、見えている景色は長渕剛のそれとは真逆なのだ。そのことは断っておきたい。
誰もが当たり前に肯定する基準に、家族というものがある。家族が仲良く助け合うというのは尊いものだ。そうできるならそれに越したことはない。だがそう出来ないケースも少なくない。そうだろう、家族全員が聖人君子のような人であるというのは実際は稀だ。誰もがどこかしらに欠点を、いや欠陥を持ち、その欠陥と折り合いをつけたり、つけきれない折り合いを誰かの犠牲に押し付けたりする。そんな家族と「助け合え」といわれても、困る人は少なからずいる。だが「家族なんてクソクラエ」は社会的標語になり得ないわけで、「家族で助け合おう」が幅を利かせ、家族と助け合えない人が社会から押し出され、押しつぶされたりする。
そういうの、よくないよね。でもなかなか言えないよね。だからアタシが代わりに歌ってあげるんだよ。鈴木実貴子ズのそういうマッチョな声が聴こえてくるだろ。そう、長渕剛とは真逆な精神的荒野に立った、別の種族のマッチョなシンガーなのだと僕は思っている。
(2020.5.4) (レビュアー:大島栄二)