さのめいみ。『ライト』【誰かを暗闇の底に落としてしまうという哀しい価値観】
情感がとめどなく溢れる歌。低音域を地響きのように声が迫ってくる。この低音域で静かに語りかけるような歌には孤独感が180%増しで強調されるような気がする。なんでだろう。世の中には声が高い人も低い人もいて、声が低いから孤独だなんて一般化はありえないのに、声の低い歌は孤独感が増して聴こえる。この歌も全体を孤独感が支配している。歌の主人公である「僕」は暗闇に慣れているという。その暗闇の中に現れた「君」が唯一の光で、その光を目にするとそれまで見えていた暗闇の中の深い夜が見えなくなる、それが怖いんだ、と言う。
暗闇の中の明るい光。それが怖いというのは孤独レベルで見てもかなり重症だ。そうだろう、明るい光は普通なら希望の光になる。進むべき方向を示す灯台のように。しかしそれが怖いという。灯台のように動くはずのない光で、それ自体が自分の目標を明確に示すものであればいいけれど、この場合の光は好きな人である。場合によっては暗闇の自分が目指すべき動かざるものではなく、暗闇が吸収してしまうかもしれない動くものだといえる。そうすると自分が明るい希望にただ向かっていくのではなく、明るいところにいた「君」を暗闇の底に引きずり込んでしまうかもしれない。だから、怖いのだろう。自分が、「君」を明るさから引きずり込んでしまう。引きずり込んでしまった暗闇の底とは、今自分がいる場所だ。自分が今いる場所に誘い込むことが怖いという。そんなに今いる場所は絶望的な場所なのか。そういう認識の中に住むということの孤独。たまらない。
他人に迷惑をかけないという正義。これは日本の中でよく見られる価値観だ。最近も「誰かに感染させるかもしれない」ことを心配せよという意見をよく目にする。確かに感染させるのはよくない。ウィルスが詰まった瓶を街中に持っていって栓を抜いてバラまくとかするのは絶対にダメだ。だが、自分が感染しているかどうかもわからず、それを知るための検査もさせてもらえず、様々な事情で外出することを避けられないのに、「誰かに感染させてしまうかもしれない可能性を考えろ」と言われても。感染させられる可能性がある人が感染を絶対に避けるためにはその人自身が一切の外出を避けて家に籠ればいいのに、それが出来ないその人の事情ももちろんある。だったら、誰もが様々な事情で外出をしなければならない状況で、過度に「誰かに感染させるかもしれないから」と思い込むのはどうなのだろうと思う。それより、「自分が感染するよ。どんどん出歩いて野方図にしていたら自分が感染するよ」と諭せばいい。だけれども日本では「誰かに感染させてしまったらどうするんだ」というロジックが有効なのだろう。
話が脱線してしまったが、この歌の主人公である「僕」は、自分が暗闇の底に落ちてしまうことを怖れるのではなく、自分が誰かを暗闇の底に落としてしまうことを怖れている。それを避けるために自らがずっと孤独に暗闇の底に留まることを選ぼうとしている。孤独で哀しい。その心の中での価値観がとても哀しい。「僕と一緒にいるとあなたも暗闇の底に落ちるかもしれないよ。そのことはハッキリと言っておく。それでも僕と一緒にいてくれるというのはどうかな?」と尋ねてみればいいのにと思う。そうしたら「いいよ。私の明るさとあなたの暗さで、ちょうどいい明るさになっていいかもよ」という答えが返ってくるかもしれないのだから。
(2020.4.27) (レビュアー:大島栄二)