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それでも世界が続くなら『地獄に落ちろ』【このウィルス禍をくぐり抜け、人の心は無傷で居続けられるのだろうか】

世界的なコロナウィルスの蔓延で、感染者多数、死者多数。どのくらいの数字が多数で少数なのかはよくわからないし、身内が亡くなれば1人だって絶対的な死者だ。ついこの間まで「我が国は全員が感染しながらこのウィルスを克服する」と言っていた首脳が手のひらを返すように国境封鎖を叫ぶ。「我が国は全然大丈夫だよ」と言っていた首脳も「私は戦時下の大統領だ」などと言い出す。それに呼応するように各国国民もパニックに陥る。マスクをせずに外出する人をならず者と呼ぶ。ライブハウスが感染のクラスターだと名指しされ、音楽をやっている人をバイ菌のようになじる人も現れる。

どうやら、このウィルスは健康な肉体を侵すより速く、健全な精神を病ませているみたいだ。

一国の総理があらゆるイベントの自粛を要請し、芸能に関わる人たちが苦境に立たされていく。表現をする人も、それを支える裏方も、インフラとして表現の場を提供している人も。

この曲を表現しているそれでも世界が続くならは、コロナバッシングに晒される音楽業界の一員として、いやただの人間として、苦悩する心境をweb上で発表した。発表時点で組まれていたライブを自粛するのかそれとも決行するのか。人は安易にイベント開催を非難するが、非難した人が自粛による経済的損失を補償するという話は聞いたことがない。ただ安易にバッシングするだけ。それはSNSなどで匿名のバッシングをするのと同じようなもので、きっとスカッとするのだろう。その向こうで危機に瀕している人の存在など一顧だにすることなく。

それでも世界が続くならの曲は地を這うような壮絶さで聴く者の心に迫ろうとする。その表現の大胆さはある意味傲慢さにも似たストレートかつ傍若無人なもので、しかし誰からも気づかれない弱さを見つめる優しさに満ちている。彼らが表明したライブ決行の想いにもそれは現れている。この状況下でライブを行なうということは、感染拡大しても構わないのかという批判を受けるだろう。だが、けっして彼らが感染拡大を望んでいるわけではなく、出来うる最大限の感染予防策をした上で、参加する誰もが感染しないことを望んでいる。そうまでしてライブをするのは、いつか訪れるウィルス終息の日にも、音楽が存在する世界が続くためなのだ。

僕は想う。音楽に限らずあらゆるものが、このウィルス禍をくぐり抜けて生き残って欲しいと。その時、それでも世界が続いているとしたら、人の心は無傷で居続けられるのだろうか。ウィルスというものに健全な精神が攻撃され、他人への優しさが失われた世界しか残らないのだとしたら、そんな世界が続いていく意味などどのくらいあるというのだろうか。

(2020.3.31) (レビュアー:大島栄二)


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