YeYe『暮らし』【音楽はささやかにフィットして、疲れた視野をほんの僅か補整してくれるようなもの】
なんともないふりをしあって
心はトゲトゲ
大きく包み合おう
(「暮らし」)
中央側、集権側に牽制するほどに正論が求められる瀬に、個々がいわゆる形骸化したマス・メディアや、個々人のメディアの副次派生からなる何かに対して現代における社会規範における個人的見解からの正義の相互監視や衿元の直しを強制する息苦しさとは別位の、高度資本主義の臨界における貧富差や、テクノロジーの発展における、個々の発言、日常の発信を高解像度で不特定多数の人たちに投げ出すことができるシステムの互換にただの暮らしのなかでの心身が蝕まれるときがある。実存より、実在するのかどうかそんな生活介入を是非と問わぬまま、尊厳と権利はいつも上の空で討議されている。
AI規定の精密さによって、バイオレンスやセクシャルなものやアルゴリズム的な語彙合わせなものさえ排除対象になり、ポリティカル・コレクトネスの下に、不謹慎の名の下に、元凶狩りは進むばかりで、そんな構造論さえも吸い上げられて制御されて、SNSはいつも賑やかにいつもトゲトゲとしていて、大喜利的なコメントが並び続ける隣で、真摯な品定めをして、評価か承認かの星を稼ぎ合っている。星によって変わる味や感覚も不思議なものだが、体感速度がそれぞれに時差があるだけに、同期しても、合わない硬軟強弱はあるのだろう。衛生用品の一部が買い占められた諸所で、それでも自分だけは大丈夫、安心としてニュースの真ん中を歩く。幾つもの自粛を要請させる報ばかりな中に。
周知の方も居るかもしれないが、この近年、世界中では、主に80年代の日本のシティポップがチルとして使われて、山下達郎をはじめ、アニメーションや多くの在りしほんの華やかな映像とミックスされたうえで、やや殺伐とした空気感に文化の萌芽で癒すかのようで興味深くも、イロニーを踏まえると、流麗さに求めざるを得ないのは束の間の(デジタル・)デトックス、はたまた、日常生活においてのハイで煌びやかな深呼吸としての意味を為しているのかもしれない。追い続けないと、追いかけられるままに、アクセスしている媒体のレコメンド沿いに今日も温故知新に触れて、麻痺させられてしまうだけに。
***
ただ、過密に、日々のささやかで清貧な暮らしがどこかの誰かに侵食されて、思いも寄らぬ災いが起こるばかりで、喜怒哀楽の何を保って往くのか、ときに安全な杖のように音楽が傍らにあってほしいと思うとき、洗練度の高さやマッシヴなものは荷が重いときが正直、ある。このYeYeの曲のように口笛を吹きながら、掃除をしながら、ぼんやりお茶を飲みながら、いとまを活かした音楽こそが相応しくあったりもする。大きな言葉でなくても、大きなアンセム的な何かでもなくても、音楽は個々にささやかにフィットして、どこかに偏って疲れた視野をほんの僅か補整してくれるようなもので、そういう意味で、幾たび毎に書いてきたYeYeのバランス感覚は今なおやはり、暮らしの手引きのような安心感があり、約3年ぶりとなる新しいアルバム『30』からのこのリード曲から香る生活をいとおしみながら、心情の機微を出来る限りサウンドと融和し、映像と攪拌させる術は変わらずなようで、気負わず受容できる。
失ったものは目に見える
失った気持ちは目に見えない
諦めることを恐れずに
立ち向かうくらいが強さになる
(「暮らし」)
周囲を見渡せば、暗澹たる想いと疑心暗鬼に囲い込まれるようないびつな現実の瀬と未来の不穏さを感じられても、たまには対象化してみて、淡々と駆け足ではない「個」として今の、小さくかけがえのない日々の”暮らし”をおくっていけたらそれも素晴らしいことなのだと思う。
(2020.3.21) (レビュアー:松浦達)