<!-- グーグルアナリスティック用のタグ -->

川本真琴『ゆらゆら』
【ドロドロとした明るさで聴く者の心に突き刺さってくる自由な表現】

ずっと気になるアーチストというのはいる。一時スターダムとやらにのっかって大人気になってライブに行きたくてもチケットさえ取れないという状態にあって、そんな時に気になるのは当たり前だ。しかしやがてそんなスターダムとやらから距離を置き、というよりそこから滑り落ち、ほとんどの人が関心を持っていない状況になっても、それでも気になるアーチストというのはいる。川本真琴は僕にとってのそういうアーチストのひとり。昔だったらそういう人が活動を続けるのは難しかった。メジャーレーベルからCDを出せなければ音楽活動は実質的に自身の半径100mくらいから外に出ていくことはなかったからだ。しかし今はこうやってMVを作ってYouTubeで公開すれば世界中で見ることができる。音源だって配信すれば世界中で聴くことができる。その広がりがアーチストの暮らしに還元されるのかどうかはまた別の問題としても、アーチストとファンがつながることは容易になった。だからこうして気になるアーチストをチェックすることが容易になっている。

便利だ。その便利が誰にとってプラスなのかはよくわからないけれども。

昨年リリースされたアルバムの1曲目を飾っていたのがこの曲。ようやくMVが制作された。とてもポップ。『新しい友達』はこのポップな曲から始まったので何かが解放されたか、聴いててとても軽い気分にさせられるアルバムなのかと思ってたらとんでもなかったので、まあこのくらいのポップさから始まらなければどんよりとしてしまうかもというバランスでトップバッターに配置されたのかと想像する。だがこの曲にしても曲調がポップで明るいというだけで、歌われている内容はけっこうズッシリとくる。そのことがMVとあわせて聴くことでさらに響いて、いや滲んで迫ってくる。どこかのスタジオでポップなサウンドにあわせるように踊る川本真琴。どこか異質。異質な何かを醸し出している。それは渋谷(多分)の街で踊る2人とも重なるところがあって、つまり、普通の人が普通に行き交う中で踊るということの非日常さ。それを普通にスタジオで踊ってるだけで醸し出す川本真琴の、おそらく内に秘めているアブノーマルさが際立つのだろう。

そもそもアーチストである以上ノーマルではいられない。だからアーチストを志す故にノーマルとは違う何かを目指そうとして、纏おうとして、無理をする人たちがいる。そういう人は、生まれながらのアーチストではない。だが一方で、ごく稀に、たとえノーマルに過ごそうとしてもそうできない人たちがいる。そういう人が、アーチストであり、「アーチスト」になるべきなのだろう。ただし商業の規模でアーチストであり続けるにはノーマルの人たちとの折り合いを一定程度つけていく必要もあって、生粋のアーチストの中にはそれができずに商業規模からこぼれ落ちる人たちが出てくる。僕は、そういう人が気になるのだ。

川本真琴がそうなのかどうかは判らない。ただ、気になったとしても以前ならチェックしようにも不可能だったが、今はこうやってその活動を追うことができる。便利だ。ただその便利さ故に、表現活動を諦めて普通の暮らしに落ち着くことが許されないのだろうし、だとしたらその便利さは本当に便利といって肯定的にとらえるのが正しいのかどうかはやっぱりよくわからない。とはいえ、こうして図抜けた才能を持った人が自由に表現を続けていった結果としての作品が、ドロドロとした明るさで聴く者の心に突き刺さってくるという経験ができて、リスナーにとっては本当に便利でしかない、困ったことに。

(2020.3.14) (レビュアー:大島栄二)


ARTIST INFOMATION →


review, 大島栄二, 川本真琴

Posted by musipl