NakamuraEmi『ちっとも知らなかった』
【したたかさを感じる、やさしい攻撃性】
まだインディーズだった頃の彼女の『YAMABIKO』は衝撃だった。それから5年以上が経過して、このMVを観る。実はしばらく彼女の音源もMVも少しだけ避けていた。避けていたというような強い拒絶ではないな。軽い拒絶。ネットで彼女の情報が出てきても、クリックしてまでその先に進もうとしない。進まなくても別にいいよね、そんなに最近のNakamuraEmiをチェックする必要ないよね、的な軽い拒絶。でも、今回聴いてみる。MVくらい見てもいいんじゃないかな。見たからって損するようなことでもあるまいし。
なぜそういう軽い拒絶をしてたかというと、なんというか、『YAMABIKO』の時に感じていた攻撃性をもはや失ってしまっているよなという、あの時の衝撃を超えることはもうないよなという諦め。メジャーデビューして大手事務所に所属して、ああ、ずいぶんと丸くなってしまったなという感じ。あの事務所って、アーチストを大きくする術は持っているけれど、大きくなればいいってもんじゃないアーチストもいるよねと、普段から思ったりしている。もちろんアーチスト自身は大きくなりたいだろうし、大きくなれなかったら自分の首を絞めるわけだし、そもそも事務所は所属アーチストを大きくするためにそれなりの投資をするわけだし、大きくならないでいい理由なんてないよ。NakamuraEmiだって例に漏れるはずがない。だからその中で彼女が事務所やレーベルに逆らう意味も力も持っていないのは当たり前だ。彼女のリリース時などに、それはライブの頃なのかもしれないけれど、SNSに「こんなことやりまーす」的な情報が表示されたりする。その様は『YAMABIKO』で見せた自分の道を信じて突き進む意志のようなものとはかけ離れた、安全に安全に今のポジションをキープするための確実な歩みの様に見えた。なんか違うと思った。それが彼女の今の道ならそれはそれでいいけれど、それは『YAMABIKO』の時のあなたの山道だったのかと、そして軽い拒絶につながっていた。
でも、今回このMVを観る。ああ、その考えは間違っていたのだなと悟る。彼女の歌う歌はやわらかかった。『YAMABIKO』のような攻撃性は無かった。しかし、この曲と表現を貫くのはやわらかさなどではない、攻撃性そのもののようだった。したたかな攻撃性。それは例えるならば10手先20手先50手先を見据えて指す将棋のようなもので、素人が見れば攻撃するつもりがあるのかと非難したくなるような無意味な手なのに、局面が変わった時に確実に的を追い込んでいく効果につながるような指し手の連続。インディーズがインディーズのままで終わって良いのなら常に攻撃的な姿勢を貫けばいい。だがもっと大きなところで自分の力を試すためには、まずはそこに行かなければいけないし、そのためにはのべつまくなしに吠えまくっていてもダメなのだ。そのためには吠えることを一旦封印する。おのれの山道を極めるために、ここは敢えて遠回りもする。そんなしたたかさをこの曲には感じる。やさしい攻撃性。将来の安泰のために自らの意志を捨て去るアーチストには興味などない。だが、自らの意志のために目前の自我など捨て去って確実を選ぶアーチストには希望がある。もしかするとNakamuraEmiは周囲が想像もしなかったような高みの何かに向かって進もうとしているのではないだろうか。
(2020.2.17) (レビュアー:大島栄二)