FUKUSHIGE MARI『沈丁花、低く』【せめて音楽を生み出す人たちの音楽に耳が傾けられるきっかけを生み出していくことができれば】
冒頭の独特のリズムを作るちょっとしたサウンドと、MVで蛇口から水滴がたれる映像とのシンクロが心地良い。そんなのは音の本筋とも言葉の本筋とも関係のない要素でしかないけれど、意外とそういった脇役というかサブキャラというか、もしかしたらそれ以下でしかない要素によって作品そのものが決定的に決まっていくということはよくあることだ。とにかくこのMVで真っ先に僕の意識をとらえたのはそのサウンドと水滴のシンクロ具合だったし、それが無ければたいした興味も持たずに次の何かに意識を飛ばしたかもしれないと思うと、やはりそういうちょっとした何かというのは結構重要なのであり、その部分に固執したであろうMV監督のこだわりにも大いなる意味があるというもの。
例えばこのMVで最初から登場する小さな女の子の存在も、そういう人を惹き付ける何かだったりする。何歳くらいだろうか、せいぜい6歳程度と思われる女の子がこの歌を歌っている。いや絶対にこの子が歌っているわけはないのだが、MVで口パクがちゃんとできていれば、それはもうこの子が歌っていると思ってしまう。実際には途中から大人の女性が小さなことスイッチバックするように切り替わって歌うようになる。この人がFUKUSHIGE MARIさんなのだろうか。そしてもしも最初から子供などを使わずに大人のFUKUSHIGE MARIさんが歌っているMVだったらどうだったんだろうか。意識を向けてちゃんと聴いただろうか。よくわからない。よくわからないけれど、子供が歌っていたから目を留めたということは、一定以上確かな真実なのではないだろうか。
そういえばこの人はゲス乙のキーボードの人であり、だからこその最初からメジャーデビューなのだろうが、そういう肩書きから興味を持って聴いてみるようになる人も少なくないだろう。肩書きというのは大なり小なり誰にでもあるもので、それを利用するのも利用しないのも、羨ましがるのも無視するのも自由。だが利用したくないと思ったところでついてまわることは不可避であって、大なり小なりのその影響力の元で、人は動くしかなかったりする。
問題はその影響力を受けた先でどれだけ等身大の努力をして良い作品を生み出すかだ。サウンドと映像の絶妙なシンクロ具合だったり、登場する少女のキュートさだったり、アーチストについてまわる肩書きだったり、様々なきっかけから人はその音楽に耳を傾ける。しかしそれはあくまで入口に過ぎないのであって、そこから先1分、2分、3分と、そして数年先の作品にまで向けられた耳をつなぎ止められるかは、音楽そのものの力以外に頼れるものはない。
2020年もスタートする。音楽そのものを生み出さない弱小レビューサイトとしては、せめて音楽を生み出す人たちの音楽に耳が傾けられるきっかけを生み出していくことができればと願う。
(2020.1.2) (レビュアー:大島栄二)