青葉市子『月の丘』
【ベストのパフォーマンスをするにふさわしい場】
京都のとあるイベントで、いろいろな布を展示販売するという風変わりなイベントだったんだけれど、その会場の片隅に設けられたステージで青葉市子が歌うという。もともとその風変わりなイベントそのものに興味があって行くつもりだったんだけれど、どうせなら青葉市子が歌う時に行こうと思い、2日目の会場へ。で、どれよステージ。フルフラットな会場のどこにも一段高い場所はなくて、ほんの申し訳程度の折りたたみ椅子が置いてある場所の辺りをうろうろしていたら、ギターケースを抱えた小さな女性が何の前ぶれもなく現れ、ケースを開き、座って歌い始めた。青葉市子だった。
それまで生で彼女の歌を聴いたことも、本人を見たこともなくて、その天才性ばかりを情報として見聞きしてて。それだけ天才で業界騒然みたいなアーチストが生歌を披露するのだからさぞかしセンセーショナルなパフォーマンスだろうと思っていたけれど、本当にそっけない、場末のショッピングセンターのステージでほぼほぼ無名の地元ミュージシャンが歌ったってもう少し華々しいだろう何やってるんだ主催者は、とか思った。驚いた。ある意味センセーショナルだった。
しかしそんな舞台装置の貧困さなど気にかける素振りもなく、青葉市子は淡々と歌っていた。マイクとかあったんだろうか。ギターの音を拾う機材はあったんだろうか。周囲には布を売る人たちと買う布を吟味する人たちとの喧噪があって。非音楽のイベントとその中での音楽との親和性というか乖離性というか、一切混じり合うことなく進んでいく場の関係性が意外と興味深かった。呆れたけれど。
アーチストが自分のベストのパフォーマンスをするにふさわしい場とか環境とは一体なんだろうか。そのことは誰もが考えるだろうし、スタッフの主な仕事はそういう環境を整えることだったりする。ストリートよりもステージで、ラジオよりもテレビで、ローカル番組より全国ネットの音楽番組で。しかし全国ネットの生放送音楽番組に出れば時間の制約でフルサイズで歌えないよとか。それでもたくさんの人に見て聴いてもらえたら良いよという理由でみんなが同じ場所を狙って椅子取りゲームを繰り返す。考えてみれば、青葉市子の音楽というのはそういう誰もが願う欲深な競争とは一歩も二歩も離れたところにある静寂のようなものだと思う。そういう意味では、市井の中に埋もれるようにあったあのパフォーマンスは、最も青葉市子的な何かを持っていたのではないだろうかとか思ったりする。
(2019.12.28) (レビュアー:大島栄二)