クリープハイプ『バンド 二〇一九』【「クリープハイプみ」とは何なんだろうか】
クリープハイプも10周年か。新人でしかなかったバンドに10周年とかいわれると自分がどんどん押し出されていく感じがしてちょっと切ない。が、それは10周年を迎えたバンド自身もかつて自分たちがいた場所から徐々に押し出されていく的な何かを感じずにいられない瞬間なのではないだろうか。
このMVは2016年にリリースされたアルバムの最後の曲として収録された『バンド』を10周年を期に再構築したもの。2016バージョンに較べてどう違うのかといわれれば、正直そんなに大きく変わったという感じではない。強いていえば多少音がやわらかく、ソフトタッチになってるかなという印象はあるものの、それもものすごく変わったという感じではない。おそらく、それはボーカル尾崎世界観の声や存在が強くて、どうしたところで常に前に出てきてしまうからなんじゃないだろうか。それをアレンジの妙で薄めようとしても難しいし、逆に多少のテクニックでさらに前に出そうとしたところでこれ以上出てどうするという状況が最初からあるわけなので。
それは、バンドにとって大きな資産であり、武器であり、同時に限界でもある。特異な個性がなければ多くのバンドの中から頭角を現すことは難しい。幸いにして彼らにはそれがあって、自分たちでもそれを磨き、リスナーに印象づけようとしてきただろう。デビュー当時やその後も、尾崎世界観の風変わりさを音楽よりも前に紹介しようとしていたメディアはたくさんあった。それが彼らをどのくらい正確に伝えていたのかは僕にはわからない。
今回10周年にあたって、【『クリープハイプみが深い』というコンセプトのもと、「クリープハイプとはなにか」を追求していく10周年企画を多数展開予定】しているらしい。「クリープハイプみ」とは何なんだろうか。何も考えずに想像すれば、その企画こそが「クリープハイプみ」なのだろう。だがそれは本当にクリープハイプとはなにかという問いに正しい答を出すための正しい方法なのだろうかと思う。もしもその方法でアプローチしたならば、結局は仮面の上に描かれたクリープハイプという名の虚像を再生産するだけなんじゃないだろうか。いや、音楽ビジネスの上ではそれが正解なのかもしれないけれど。
バンドをやっている者が見る世界はリスナーの見ている世界とはまったく違う。ライブの日にも、ステージの上から見える光景はもちろん、狭い楽屋で出番を待つ間の光景、リハの後にメシ食いに行く光景、ツアーの移動、バンドの状況によって変わる宿泊施設のグレード。もちろんライブ当日以外の日々の方が多いわけで、そこで素のメンバーが見ている世界は一体どんなものなのかを想像してみる。その結果想い描く光景は、きっと「クリープハイプみ」とはかけ離れたものなのではないだろうか。
原曲の歌詞の中で想い描くのは2009年のアンコールの拍手だったと言う彼ら。リスナーが若い頃に出会ったバンドに衝撃を受け、彼らも自分もどんどん歳をとっていくのにその呪縛から逃れられずにいつまでも聴き続けることになる。それと同じように、バンドマンがいつまでもバンドをやめられないのは、どこかの瞬間に自分の心を鷲掴みにする何かがあって、その衝撃が彼らを泥沼の音楽人生にどっぷりとはめていくのだ。それは幸福なことか、それとも不幸なことなのか。そんなことを客観的に語ったところで意味のないことで、どんなに苦しくったって、そんな瞬間に立ち会ったバンドマンは音楽を掻き鳴らすことから足を洗うことなんてできないのだろう。だから、逆にいえば簡単に解散したりしてその後音楽を辞めてしまえる人は、そんな衝撃を味わったことのない人で、だとすれば、衝撃を味わうことができたというだけでも、そんなバンドマンは幸せに違いない。
(2019.12.13) (レビュアー:大島栄二)