ヒヨリノアメ『東京』【誰もが居場所を得て、誰からも気付かれずに小さな花を咲かせていく】
聴いていて、東京という場所の特殊性がにじみ出てジワジワと心の中に広がってくるのを感じる。華やかで切ない、東京の記憶。彼らは東京に東京に落ちていくと歌っている。以前にも何かのレビューで書いたような気がするが、東京にはいくつもの小さな空間があって、そのどれかにいつの間にか自分がはまっていることに気付く。10個の椅子を巡って争う椅子取りゲームならば、自分がどの椅子を狙うのか想定することもできるが、例えていうならば1000万個の椅子を巡って繰り広げられる椅子取りゲームに参加した時、そのどれに座れるのかというと、それはまったくの偶然でしかない。どこに自分の椅子があるのかもわからず、でもこれだけあるのだからどれかの椅子には座れるだろうという漠然とした期待。実際は一体いくつの椅子が存在しているのかさえ知らされず、音楽が鳴り始めたら次の椅子があることを願って、保証のない椅子取りゲームを繰り返す街。
そうして偶然巡りあった椅子に、僕らは落ちていく。運命と信じてスタートしたバンドメンバー。そりゃあ運命と必然と信じなきゃやっていられないけれど、それは単なる偶然の出会いなんだよと、きっと自分でもわかってて。それでも信じて、いや、目をつぶって偶然の出会いに必然を描いて日々を過ごす。
□ 下北沢のライブハウスに 今日も僕らの歌が響いてる
□ 響いてはいるけれど 「誰かに届くかは自分達次第」らしい
そうして集まったバンドが今日もまた下北沢でライブをやる。今下北にはいったいいくつのライブハウスがあるのだろう。それらすべてに1日3組から5組程度のバンドが5曲〜7曲程度をがなり立てる。その歌はいったい誰に届くのだろうか。3〜5組の対バンライブに出ている間はまだまだだ。そういう中からワンマンをしたり、ホールライブに発展したりするバンドが稀に誕生する。そういうのを「開花」といえばいいんだろうか。では発展しないバンドは花を咲かせたことにはならないのだろうか。
しかしどんな活動も生活も種となって落ちていく。東京にはそういう地味な種が落ちていく場所が無数に存在する。スターになるような咲かせ方はできなくても、アスファルトの隙間から芽を出してくる草花があるように、誰もが居場所を得て、誰からも気付かれずに小さな花を咲かせていく。成功することだけが花を咲かせることじゃない。もちろんそれはバンドマンだけじゃなく、すべての東京に暮らす者にとって。
茨城からバンドとして上京した彼ら。2年半の暮らしを経て、彼らが見てる東京の風景は一体どんなものなのだろうか。
数ある東京ソングの中でも際立って秀逸な、名曲。
(2019.12.3) (レビュアー:大島栄二)