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クアイフ『桜通り』
【忘れないようにしないと忘れそうで怖いよ】

自死した友人への想いを綴った歌。ソニーからデビューして以降MVをショートバージョンで公開することが多くなったクアイフの、これはフルサイズでのMVだから、そうすることに彼らなりの強い意図があるのだろう。問うても答えが帰ってこない問いかけが続く。自分には解らない強い行動で旅立った以上、そこにはそうするべき理由があったはずで、その理由に至った時に見えていた世界は一体どういう光景だったのか。その光景が見えないから今も自分はここにいるわけで、答えが解らないということは、自死した友人が生きていたとして、今も何気ない会話を続けていたとして、両者の間には埋めることのできない絶望的な溝が横たわっていたのだろう。その溝を埋めてしまえば、自分もこの世に残って生きることができなくなるかもしれず、だから、本音を言えば解りたくなどないのだ。想いを馳せても、到達はしたくない。死者への共感はけっして相手の立場に同一となることではなく、あくまでこちらサイドの癒しでしかありえない。相手の気持ちをちゃんと理解できなかったことを許して欲しいと、そのための、答えの得られない問いをひたすら繰り返すこと。それしか出来ないし、そしてそれで良いのだ。

こういう曲が出てくるということは、こういう体験をしたことのある人が増えているということの証だろう。都会では毎日のように電車が止まる。その電車遅延の裏には、友人を失った人の悲しみが存在する。自分には関係のない人が大多数だろうし、今日の予定がちょっと狂ったことへの恨みつらみがほとんどなのだろうが、大切な友人の不可解な最期にショックを受ける人も日々増えている。やり場のない理解不能な悲しみ。自分には何かできなかったのだろうか、たったひとりに問題を抱えさせ、自分は当たり前の日々をずっと過ごしてきた。何もできなかった、いや、何もしてこなかったことへの後悔。後悔したところでどうなるものでもないし、気付いて引き戻そうとする努力をしたとして、実際には溝が深まるのを認識する以外にありえなかったのだけれども。

クアイフのメジャーデビュー後の代表作とも言える『愛を教えてくれた君へ』という曲があって、それは別れた恋人からの問いかけのような内容の歌詞になっている。だが、よくよく見返してみると、それはあの世からの言葉のようにも感じられる。千の風のような、お墓に僕はいませんみたいな。その中で「忘れないでなんて言えば君は困るだろうから、忘れていいよなんて最後まで強がった」という詩がある。一方この『桜通り』では「忘れないようにしないと忘れそうで怖いよ」という歌詞が歌われる。別れの理由が死なのかそうではないのかに関わらず、過去のことを人は忘れる。忘れずにいようというのは時間の経過への抗いであり、多少の努力が必要になる。その努力をしても覚えていることに価値はあるのか、それとも忘れることで何らかの肩の荷を下ろせるものなのか。もしも可能なのであれば、忘れてしまった方がいいのだと思う。日々は再び明るいばかりの日常を取り戻せる。だが、そうすることに抵抗もあるし、本当に忘れようとしても忘れられないことだってある。だったら、まるで今も近くにいるように錯覚して、日々を過ごすことだって別に悪いことなんかじゃないかもしれない。

詞を書いているベースの内田旭彦には、いろいろな体験があるのかもしれない。その想いを歌にして発表することは、ある種の浄化にもつながるのではないかと思う。それは表現者の特権でもあり、だから人は表現をすることをやめられないのだ。

(2019.10.26) (レビュアー:大島栄二)


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review, クアイフ, 大島栄二

Posted by musipl