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見田村千晴『独白』【黒歴史を抱える人たちに共通する最後の守るべき砦のようなもの】

人は他人に自分のことを解ってもらいたいと思うもの。だが、それは本当なのだろうか。誰かに解ってもらいたいと思いつつも、どうせ解ってもらえるはずもないと壁を作る。それもよく見ることで、一般的に社交的という評価のある人ほど、真実の自分を他人に見せたりはしないし、見せずに済ませる術を高度に持っている。三田村千晴というシンガーが本当はどういう人なのかはわからないしわかりようもない。この曲では自分の黒歴史を含む暗部を全部さらけ出すような表現に努めている。曲といいつつ、とりあえずメロディがあるというだけで、ある意味ラップだし、語りだ。叫ぶ詩人の会的な、ポエトリーリーディング的な。アレは本当に歌詞がすべてでメロディは付け足しみたいな印象を持っていたけれど、その源流は長渕剛的なところにあると思う。いや、長渕剛は優れたシンガーだし優れたメロディメーカーだし優れたギタリストだ。初期の長渕剛のアコギの上手さには本当に驚いたものだ。しかし、彼の作品の価値はメッセージにこそあるし、その強いメッセージでリスナーを魅了し続けていった。対極にあるのが山下達郎的なところで、もちろん素晴らしい歌詞を書くし感動に涙あふれるけれど、やはり山下達郎はそのメロディの素晴らしさ、音楽的な価値にこそあって、そこに載せられている言葉による表現やメッセージは、その音楽的な卓抜さに較べれば比重が大きいとはとてもいえない。山下的な音楽は極論を言うならインストミュージックになったって成立するし、長渕的な音楽は極論を言うなら印刷された詩集でも成立する。叫ぶ詩人の会やラップミュージックは詩集であっても成立しうるメッセージ性を特化させたものだと思うし、そういうのが成立するということは、そのままそういうメッセージの需要がとても大きいということの現れなのだろう。

話が脱線したが、見田村千晴はどちらかというとそのポエトリーリーディングの系統に属する人なのかもしれない。その手法で心の内を全部さらけ出す。そういう表現をしている。しかし、どうも、これが本当の心の内なのかという疑問が消えない。天真爛漫でまったく悩みなどなく成長してきた人ならどこをどうひっくり返したとしてもこの曲のような言葉は出てこない。だから彼女がある程度の苦労というか黒歴史を抱えてきたのはよくわかる。だが、だからこそ歌詞を書く時に出してもいい黒歴史と、出すわけにはいかない黒歴史を比較しながら、きわめて慎重に言葉を選んで歌詞を作っているように思える。ここにある本音の自分は、他から見ても美しい。だから詩になるわけで、でもそんなのは黒歴史でもなんでもない。チョイスされた美しい黒歴史の奥に、けっして明かすことのできない真っ黒な黒歴史があり、そこを巧みに隠しながら、リスナーに共感してもらえる社交的なシンガーになろうと懸命な、ある意味進化途上のポップシンガーのいじらしい姿が垣間見える。本音の真の黒歴史を語りはじめたらもっと強いし、もっと楽になるだろうに、それはけっしてできないのではないかと思う。それは彼女が批判されるべきポイントなんかではなく、黒歴史を抱える人たちに共通する最後の守るべき砦のようなものなのだろう。

(2019.10.15) (レビュアー:大島栄二)


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review, 大島栄二

Posted by musipl