kasa.『あいまいなことば』
【失恋クソブログとは決定的に違う、温度も感情も伴った表現】
この曲を、音楽抜きで歌詞だけ読んだら、ほとんど何も伝わってこない。それは言い過ぎだろうけれど、こういうことを書いている失恋ブログはたくさんある。書かれていることに具体性がない。書き手に文才がない場合は別として、ある程度の文章力がある人も、こういう表現の失恋ブログは書く。具体性を排除することで、他人がイメージすることを阻止しようという心の動きがそうさせる。失恋の相手だけがわかれば良いんだよ。あの時自分はこんな気持ちだったんだよと。もっというなら、その失恋相手だってわからないくらいでもいい。そうなってしまうと誰もわからないんだから、そんなこと文章にしなければいいのに、書かなければいいのに。そう思うあなたは浅はかだ。書かずにはいられない。自分は忘れられないんだ。忘れるわけにはいかないんだ。言ってはいけないし、伝わってはいけない。なのに、言わずにはいられない。それはイソップ童話にある王様の耳はロバの耳のようなもので、言ってはならないといわれても、人は言いたいのだ。誰が聞いてくれるとか誰が読んでくれるとか関係なく、ただただ言いたいのだ。そもそも男女間のケンカなんて犬も食わないわけで、友人として親身に話を聞くだけ損をする。時間の無駄。それでも人は恋の悩みを、失恋の痛みを、言葉にする。そうして、無名の人の誰も読むことのない失恋ブログが、いや、たまには誰かが読むだろうけれども読んだところで意味不明な失恋ブログがどこかのサーバーに数テラバイトも数千テラバイトも蓄積されているのだろう。
だが、この曲を聴くとすぐにわかるのだが、この曲はとても良い。聴いていて主人公の気持ちが伝わってくる。文字だけならクソ失恋ブログでしかなかった言葉が、意味になって伝わってくる。歌い手の声が温度を伴っているからか、単なる文字が感情へと昇華して迫ってくる。音楽には力があるな。感情を浮き彫りにする、いや感情を創成する力がある。字面だけなら強く責めているような文字が、緩やかで力を抜いた歌を伴うことで、ああ、この人はけっして責めてなんかいなくて、むしろ感謝してたりするのかもなと感じることができる。音楽の力はすごいな。彼らが歌う「あいまいなことば」はそこらじゅうにあって、そこに籠められた感情を誰も気付かずに空気の中に消えていってしまう。だけど、もしそういう言葉に歌がついたらどうだろうか。みんながその言葉の存在に気がついて、そこにある温度に気がついて、無視してい続けることができなくなるかもしれない。そう思うと、やはりすべての言葉が歌になるなんて必要はないし、むしろそうならない方がいいなと思う。あいまいなことばは、意図的に曖昧なままに置かれているのであって、空気に消え去ることが良いのだろう。王様の耳がロバの耳だと森の奥で叫んだ言葉を、そこに生えている葦が言い出したりしたら、やっぱり困るのだ。だから、すべての失恋クソブログは誰にも読まれず読み解かれないままサーバーの中に蓄積されるべきで、そういった意味で、メロディが付けられて表現力あるシンガーに歌われているこの歌詞は、失恋クソブログとは決定的に違うし、多くの人に聴かれて、吟味されるべきものなんだろう。
(2019.8.26) (レビュアー:大島栄二)