リクオ『オマージュ – ブルーハーツが聴こえる』【これからも生きていくのだという宣言のような歌】
ピアノマンとして日本の音楽界で独特のポジションで活動してきたリクオも気付いたらもう50代後半。彼の地元京都では先日の地方選挙である候補の応援者として名を連ねていて、ああ、久しぶりに名前を見たなと思って、そしたらこの動画が公開されて。ピアノマンとしての洗練されたイメージよりもなんとなく泥臭いロックンロールの香りが醸し出されている印象。この曲からは音楽を続けてきて本当に良かったのだろうかというミュージシャンにはありがちな悩みや逡巡が感じられる。日本ロック界の大スターのような大成功とは違うまでも、音楽だけでずっと生活が成立しているのだから十分に成功といっていい音楽人生で、そんな悩みなんて持ってるのか本当にと思ったりもするが、年を重ねて1プレイヤーとして、これまでとこれからを考えれば悩みがゼロであるはずもないだろう。それはミュージシャンに限らず、どんな職業のどんな立場の人だって同じことだ。
曲名にある『ブルーハーツが聴こえる』というのは一昨年に公開されたオムニバス映画で、ただ単に曲が使われているというだけでブルーハーツが出ているわけではない。この映画のタイトルは彼らの解散後に出たドキュメンタリーDVD『ブルーハーツが聴こえない』を意識したものだと思われる。意識してないんだよ偶然だよというかもしれない。だがブルハを知っている人は偶然とは思えない。聴こえなくなったものが聴こえるって、どういうことなんだよと。曲を使うのだから、著作権とか原盤とかの権利収入がブルハ関係者に多少いくだろうが、その映画を見に行く人がブルハの何かを意識していく重みほどの還元があるとは思えない。それはブルーハーツの知名度を利用するだけなんじゃないかという気もする。
しかし、一方で利用したくなる文化的重みというものも実際あって、昭和の終わりに青春を過ごした若者にとって、ブルーハーツが与えた重み、精神的くさびのようなものは表現し難いものがある。それはある種、戦争が、バブル経済が、バブル崩壊が、そして311がその当時の人の精神を左右した重みに匹敵するものだ。『BOOWYが聴こえる』とか『ジュディマリが聴こえる』『ドリカムが聴こえる』といった映画が作られないで『ブルーハーツが聴こえる』が作られるのはそういう理由だ。ブルーハーツによって与えられた衝撃を考えれば、それを突然断ち切ってしまったブルーハーツはズルいよということの方が、ブルハの名前を利用した映画を作ることのズルさよりも大きいのではないだろうか。いや、そのズルさも含めてブルーハーツという存在だったわけだけれども。
リクオの話に戻ろう。この曲、ブルーハーツの歌詞や、曲の中で触れられる(そして一緒にギターを弾いているCHABOの)RCサクセションの歌詞や、その他諸々の当時を思い起させるエッセンスが散りばめられていて、聴いていてニヤリとしてしまう。そういう昔話のようなものにニヤリとしていてはダメなんだと思うが、じゃあそういう積み重ねも一切無しに生きられるのかというとそれも無理で。リクオがこういうオマージュソングを歌っているのも、同世代の音楽ファンにたいしたマーケティング的サービスであると同時に、自分がどういう立ち位置でこれまで頑張ってきて、そしてこれからも生きていくのだという宣言のようなものだと感じる。ほぼ同世代の、実際には3日しか誕生日が違わない者として、こういう旧臭くも前を向いた宣言のような曲を聴いて、自分もまた前に向かって進まなきゃなという気持ちになる。
(2019.6.1) (レビュアー:大島栄二)