あいくれ『ジェリービーンズ』【永遠に答えの出ない問いを、雰囲気も含めて見事に表現した歌】
現状がそこそこ恵まれているとか、他よりはマシとか普通に思える状況から抜け出してさらに違った何かに向かうというのはなかなかに難しいことで。現状のそこそこの何かに到達するために支払った努力を考えると、もうそこそこのそれでいいやと思うのも普通の話で。だから人はそれぞれの位置がいかに素晴らしいのかを自分で説明して、現状に甘んじようとする。そえれは自分の外的要因への納得であって、内的要因へ納得しようとし始めると途端に現状の素晴らしさが脆くも崩れ去る。だから内なる衝動を抑えて封印することが大人としての在り様として尊ばれ、多くの人が自ら進化を止める。
国といった単位でコミュニティが築き上げてきたシステムは、築き上げる過程で何らかの理由を持ってそうなっているのであって、だから一部分を変えるなんてことは容易ではない。組み上げられた積み木細工の一番下の部分を変えようとすると全体のバランスが歪みすべてを失うことになる。だから、大人はそれをやろうなどとは思わない。現状の積み木細工も美しいじゃないか。そう思えば良いことだ。むしろ審美眼など持たなければ楽になる。
しかしそれが積み木細工ではなく、3面だけそろっているルービックキューブだったらどうだろうか。明らかに不完全な形である。誰が見ても不完全。だがそれを6面が完成した状態にしようとすれば、現状そろっている3面を一旦崩さなければならない。だったら、美しい3面だけをこちら側に向けて、飾り戸棚に置いておけばいいだけのこと。無理をしてどうする。
たかがルービックキューブならそれでもいいだろうが、自分の人生や価値観を賭した場合はどうなのか。その封印を、忘却を、無視をすることが大人だというのなら、いっそ大人になどならなければいいのに。
あいくれが歌う「ジェリービーンズ」は終始気怠くて、どこか満足の無い状態をイメージさせる曲だ。ジェリービーンズというお菓子が、煌めいているものの例えとして登場する。それに賞味期限というものがあるのかと問う。賞味期限が無ければいつまでだって煌めいているだろう。だがその答えは無く、箱の中にずっと押し留めておいて、誰からも食べられずに煌めき続けていたとしたら、それはジェリービーンズの甘さというのは、一体なんのためにそこに存在しているのだろうか。
煌めきと、甘さと。ものには複数の価値が同時に存在していて、だから悩ましい。壊れそうなものは、壊れてしまうから価値があるとも言える。それを割り切って問題など無いように振舞うことの賢さと、愚かさと。そんな永遠に答えの出ない問いを、雰囲気も含めて見事に表現した歌だ。この雰囲気を醸し出すのに重要な役割を果たしているのがギターの音色だということも強調しておきたい。
(2019.5.30) (レビュアー:大島栄二)