小林未季『スクリーン』
【他を拒絶するスクリーンの存在に気付くということ】
過去2回レビューをしてきて、小林未季という人の歌は面白いな興味深いなと思ってきたけれど、この『スクリーン』という曲はそれまでとはまた違った表情で迫ってきた。いや、迫ってきたという表現は誤解を生むだろう。過去2回の曲『テンポ』と『Dance』が動的にこちらに迫ってくる熱量を持っていたのに対し、『スクリーン』ではこちらに向かって迫ってくる熱量がない、というよりもこちら側から歌に向かって迫っていこうというベクトルを遮断しようという意志さえ感じられるのだ。歌として表現しているのだから、もう放っといてというものではないはず。本当に放っといて欲しいのであれば歌などで表現すること無く引退した方がいい。しかしそうではなく歌として表現して、しかも距離を置きたい、立ち入らせたくないというのであれば、そういうものが「表現したいもの」だったのだろう。
何年か前、心を崩壊させた友人がかろうじて僕とだけコンタクトを取ってくれて、それ以外の友人たちとはもう話をしたくないんだという心情を吐露してくれた。毎日毎日電話やメールで話をしたし、直接話をするために東京までも何回か行ったりもした。けれど、多角的な視野を取り戻すためにはひとりだけじゃなくて、信頼できる数人と話をすればいいのにと思ったし、提案してもみた。だが結局はやはり誰とも会うこと無く、終わりの日がやってきて。普通の時なら親友と会った方が良いよねと思えるのだろうけれど、普通じゃない時の会わない方が良いという彼の理屈にも納得出来るところは多くて。そういう時の気持ちを説明することは難しいんだけれど、この曲で歌われているスクリーンというのはかなりそれに近い何かがあって、人はスクリーンで隠したい何かがやはりあるのだよと、人によって隠したいものの量も、隠したいと思う強さもそれぞれなんだと。
YouTubeの説明欄で小林未季は、心の整理ができると考えて作った歌だといい、少しでも愛しいと思えるきっかけになればと話している。ダメだと思ってしまう自分の何かを愛しいと思えるというのはとても難しいことだと思う。特に心を崩壊させた時の人にそれを願うのは虚しい。だが病んだ人にそういう変化を強いるのではなく、病んでない側の人が、病んでいる人の心の中に存在している他を拒絶するスクリーンの存在に気付くということは、病む人と病んでいない人とのコミュニケーションを促進する上では有効なのではないかと思うし、そういう側面で、この曲は素晴らしいと個人的に感じる。
(2019.4.2) (レビュアー:大島栄二)