松本佳奈『あの陽だまりは瞼の裏』
【命が続いていく、陽だまりのような光景を】
音楽で生きていくということが以前のようには容易ではなくなった時代、それでもミュージシャンは音楽を紡ぐ。それは音楽で生きていくというのではなく、音楽をやるために生きているという佇まいのようだ。
松本佳奈というシンガーはプロなのだろうか。それともアマチュアなのだろうか。2015年に初めてレビューを書いて、その時にTwitter経由で感謝の言葉をいただいた。面識は無いのに、垣根のない人だなと思った。その松本佳奈さんが出産されたということを昨日ブログで公表した。小さな指が懸命に母親の指を握っている写真が載せられている。ああ、そんなだよな。僕の子供も力強く握っていた。おそらくまだよく目も見えてない赤ちゃんは世界とのつながりを確認するように親の指を握る。いや、世界とのつながりを云々というのは大人の勝手な思い込みであって、単なる本能なのかもしれない。近くに棒切れをもっていけばそれだって握るかもしれない。だが、親はその指をつながりと思うし、ぎゅっと握られるとその懸命な力を愛しく思う。その想いはきっと子供に伝わるに違いないと思い込む。そうやって小さな赤ちゃんのマジックにかけられて、懸命に育てようとなっちゃうのだ。なっちゃっていいんだけど。
彼女の母親と祖母の関係を語るモノローグから始まるこのMV。静かに語るように歌われる。日常だった祖母との暮らし、犬との暮らし、金魚との暮らし。それらがなくなった食卓で母と2人。囲む人が減れば食卓は広くなるのだろうが、そこをちいちゃくなった食卓だと歌う。
先日ある人の『陽だまり』というブログを読んで。どんな人も簡単に失敗して、息をするのも難しくなる瞬間がある。そんな時に息をつける陽だまりのような場所を、用意できない社会はもはや社会ではないと、そんな内容のブログ。松本佳奈は、祖母との暮らしを一点の曇りも無い陽だまりのような毎日と表現した。その記憶が瞼の裏にあると。大丈夫、もう大丈夫。陽だまりのような記憶を瞼の裏に持つことで、人は大丈夫という感覚になれるのかもしれない。社会にも陽だまりを設けて欲しいとは思うが、それが叶わない場合、記憶という陽だまりを持てるのかどうかということが、生きる上で大切なことなのかもしれない。
出産をした松本佳奈のブログには「活動は8月から再開します」と書いてあった。そんなに急がずにもっと休めばいいのに。だが、いてもたってもいられないのだろうな。それは彼女が本質的には生きるために音楽をやる人ではなくて、音楽をやるために生きる人だからだ。音楽をやっていないときっと生きられない。そういう人が歳を重ね経験を重ね、立場や環境を変えながらも続け紡いでいく音楽というものを、僕は定点観測的に眺めていきたい。それはきっと驚きを与えてくれるだろうし、その驚きが自分にとって大きな財産になっていくはずだ。
でも、産後の体調はきっと予定通りになどいかないだろうし、赤ちゃんとの暮らしは生活のリズムも質も決定的に変える。だから、活動再開が遅れに遅れたって誰が文句などいえようか。その新しい暮らしは彼女の音楽にもきっと大きな影響を与え、音楽の質を高めてくれるのだから。
(2018.5.26) (レビュアー:大島栄二)