夜ハ短シ『やさしさについて』【目立たないし何がどうだって言えない良い曲というもののありがたみ】
なんてことはないのだ。なんてことのない曲。だけれども、なんてこともないのだけれども、ついつい手を止めて聴いてしまう。こういう曲のことは、とても困る。どう言い表せばいいのかわからないからだ。音楽はそれ自体在れば良くて、聴けば良いじゃん、良い歌だって判るよと。それはその通りだ。でも人が聴きたいと思うにはきっかけというものがあって。だからその知らないから知るに至り、知って興味を湧き立たせて聴いてもらうまでの、その間をつなぐ上で言葉が果たす役割は大きくて。だから、音楽は言葉によってその何たるかを言い表すことがとても大事なのだ。
そのことが本末転倒なことを生む。良い曲を生み出すことを諦め、良い曲だと言葉で言い表し易い曲を生み出そうとするようになる。すると良い曲のように感じられやすい曲が次々と世の中に出て行くようになり、人は良い曲に到達することが難しくなっていく。言葉が、その有用性によって音楽の価値以上に成り上がり、今度は音楽の壁として立ちはだかるようになる。今は、そんな時代だ。良い曲は混沌の中で埋もれ、溺れている。
夜ハ短シは3年ほど前にも1度レビューしていて、かつてメジャーで活動していたメンバーを中心に結成したということにも触れている。だとすれば、どうすれば良い曲を生み出せるのかではなく、どうすれば売れる曲を生み出せるのかという現実に晒された経験があるはずだ。その彼らが2010年にこのバンドを結成し、けっして売れているといえる状況ではない中で曲を紡ぎ出し、今回こうしてレビューする曲の良いことったらない。どこが良いのだ? 言葉で説明してくれよ。そんな声が今頭の中で響いている。でも、それが出来ない。この曲の良さは判るけど言えない。僕の能力を超えている。どう言えばいいのだろうかと自問自答しながら何度も聴いて、結論が出ない。ありふれている。そうかもしれない。特別な強い言葉は、無い。だがそれは、当たり前のようにそこここにある空気のようなもので、なによりも重要だけれども普段は忘れられている。良い曲とはそんなものなんじゃないだろうか。もちろん世の中には目立つ曲だってある。それはそれで認められていい。だが、目立たないし何がどうだって言えない良い曲というものもあるわけで、そういうものにもたまには目を向け、それが在ることのありがたみを想ってみるのも悪いことではない。
(2018.5.5) (レビュアー:大島栄二)