米津玄師『LEMON』
【米津玄師は何でこうなってしまったのだろう】
米津玄師は何でこうなってしまったのだろう。
ハチにも戻れず、“米津玄師そのもの”を模造化しないと許されないという社会的要請がこうさせたというならば、日本でゴスペルが宗教的な意味以外でもシビアという文脈で、歌謡曲が人心をふるわす証左ということを何度目かの、いやそれ以上の歴史的な反転で標本化しないといけないような気がして、この暗さの中で目を凝らすには相当の気力や知力が要るような、でも、一話完結型のドラマではなく、人生はだらだらとどうしようもなく「続く」。これで終わりと終える人も居れば、こんな筈ではなかった、を繰り返す人も居る。島田雅彦の随分昔の『僕は模造人間』という小説を想い出し、今はただ模造される(かのような)人間の尊厳を深く考える。
シネコンでの観ようという気が起こらない題目、ホテルでのパスポートの山積み、行楽地での異国語の行き交いとバイタリティ、安心を買うための静寂は日本的な、そこになく、楽園はモールに囲い込まれてシニシズムが個体を打ちのめしては、「べき」論の声の大きさが小さな抗いも掻き消す。そして、アップルではなく、レモン。ビターに今年をひとつ代表するだろうMADE IN JAPANの曲は限りなく教会の中に閉じてしまう。人気ドラマの主題歌や米津玄師自身のポピュラリティより集団的無意識の中に通底する悲しみや喪失感を昇華させるにはきつい気がしながら、当たり前に嚥下されてしまうのもこの瀬のやるせなさで、もうやるせなさを感得することも贅沢な味わいで、心臓の鼓動や脳の動きより先にタイプキャスティングするこの大きさで涙した後の日常の壮絶さに息が詰まる。昨今のMVの傾向に倣い、中性化していき、多様化のフォルムがしっかり刻印され、女性が祈るように踊る、様ざまな肌の色の人たちが出てくる。いわゆる、クライマックスの3:33秒辺りで米津自身が歌いあげる後ろのシーンが象徴的に。ただ、ダイバーシティが究極的に島国の日本で根付きにくいのと同じくして排除から始まること、と包摂から思惟することの間の壁は高くして越えられないみたく現代の聖歌はどこに意訳されてゆくのだろうか。
(2018.3.19) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))