Justin Timberlake『Filthy』
【そもそもどこに私たちは向かおうとしているのか、の命題】
おそらくこの2018年では、「最先端」にして当たり前に属するレベルのMVになるだろう。バウンシーなビートメイクに、存分に凝った映像。アルバムの全体像としてはジャスティンの肉体性やリリシズムが活かされているにしても、この『Filthy』の容赦なさは何なのだろう。AIやシンギュラリティなどの概念を前提にした上で、“現代のマイケル・ジャクソン”とはつまり、黒すぎず白すぎず、受容者たちそれぞれの制御の上にコントロールしてくれればいいと云わんばかりの描写の数々が示唆的によぎる。そして、ORではなく、マシン・アゲインスト・ヒューマン。の二軸が無化しようが、心臓は鼓動を続け、機器は呼応し続ける。いつか呼吸困難になったときに、差し伸べるべきは薄くなった酸素だけで、その酸素をサブライムな愛としてパフォーマティヴな喝采がよせられるのならば、過呼吸にならずに済むとして、でも、そこから求められるのはそもそもどこに私たちは向かおうとしているのか、の命題に尽きてくる。誰一人居ない熱狂の砂漠なのか、潔癖的な高層ビルディングに囲まれた荒野なのか。“尖端”恐怖症の自分にはその先端はあまり観たくない。囲い込まれたショウで監視されているのは、どちら側なのだろうか。そもそも、監視社会などはバカげた所作なのだろうか。
(2018.1.22) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))