YeYe『うんざりですよ』【曖昧な共感の下に、どうでもいいことにこそ沈思を】
「海」でもない「岸」でもない場所に、功利主義でもない平等主義でもない場所にティーカップを置くと、おのずとその跡型から対話の芽吹きが感じられることがある。「すぎる」とポリティカル・コレクトネスの配慮がなさせる瀬に、「すぎない」節度の表現とはどこまでの想像を短絡化させないか、考える。間違っていないならイロニーに冷酷に。正解に近そうならば、無難に和むように。切り分けられる二分線に曖昧がなく、虚ろな評価だけがあがる。
肩の力が抜けたカントリー調なYeYeのこの曲は如何にも曖昧さを空間の中に音楽として昇華せしめる。アドリブ、セッション辺りのAIの機制ではきかない領域での遊びをオルタナティヴに表象してみせる。表面張力の強すぎる音像の瀬に対してのささやかなドミンゴ。休息は嘘ばっかり。人生はでも、笑顔で生きられるように。のどかにかわしてみるには記号論の幾つかをくぐり抜ける。どうかいいことは他人のエゴで、どうでもいいことこそは共感の径までを往くと思う。そんな曖昧な共感の下に、どうでもいいことにこそ沈思を。そこからのつながりが小さな未来の設計図を描いてゆくような気がする。うんざりするのはささやかな日々の憂い事の数々で、もはやいい。あとは、そのままに穏やかに曖昧に進んでゆく。
(2018.1.15) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))