宇多田ヒカル『あなた』
【永い2017年ももう眠る。どんな場所のどんなあなたにも、行く末に祝福を。】
大きな空港や駅でこの曲が突然、大きく流れて思わず動作を止めてしまったことがある。宇多田ヒカルという存在があまりに大きくなりすぎて、もはや立ち止まりすらしない人たちばかりの中、また、この「あなた」は何なのだろうと思うほどの深度がありながら、陰湿な湿度がなく、まるで何らかの自己犠牲に至るまでの道を、一歩ずつ後方を確認しないようでいる内にたまった長い葛藤までも、ポップスの時間枠に濃密に昇華せしめている寛容さ。5分もいかない間のメロディやハーモニーは、オーセンティックでまるみを帯びた有機的なアンサンブル、余韻を残しながらも切り落とすウェットなボーカル、歌詞などがしかしこそ壮絶で、その壮絶さは基準値になってさえいるといえるくらい現今の日本、世界中問わず、混沌の真ん中への朝の亜熱帯の鳥のけたたましい鳴き声での目覚めにふさわしく聴こえながらも宇多田ヒカルの曲として聴くと、そんなに不気味さや壮絶さは的外れな気がするのもいい。スムースに、じわじわと彼女の歌は消費されてきたようで、浪費はされてきた訳ではないのを思い知るように。あの「Automatic」でのデビューの頃のときから、モード・チェンジ、作者の錯綜の過程で、宇多田ヒカルこそは90年代後半から00年代の兎角、液状化しつつあった瀬で、あくまで異質たる者として、ややこしいガラパゴス的な状況を昇華し、足場の不安定さの参照点が階層を越えてくるのが興味深い、代表的な一人のアーティストだったと想いもする。何でも屋でもあり、孤高。嬉々として「今夜はブギーバック」をカバーしていた顔を浮かべながらも、どんどん行けるところまでは行けない感じの内奥で、せめて、カルチャーの福音が赦しを、多くはなくても施すのであれば、という極点にあるような「あなた」の先を歩いていけたのならば、部屋の中には通じる言語だけが気化するのだろうかとも思う。
永い、永い2017年ももう眠る。
永いのはこれからも続く問題が山積しているからで、そのあとに目覚めずにクリスマスも年末もシームレスにどこかの誰かの予定と、悲しみの時代を生きる覚悟に回収されていって、それが、社会内階級化が可視的に進む日本でも、「あなた」を通じて絶対性を帯びるのだろうか、とは願いと迷妄を往来して。
いつも、何かしらの不安の種は他人事。願う安心も他人の事。思えば、完全復活後の彼女は鎮魂師のようなたたずまいを崩さずにいてその雰囲気に少し躊躇う距離感がありながらも、この「あなた」で、氷解するほどにわかるというのもなかなかないことで、1曲単位の意味や配信やライヴの様態が変わってゆく中でこその今年の、もはや演歌な情念までを込めた人それぞれの感情の機微をタイプキャストして、ジェット・ラグまでも潤しく聴くことができる。
ラブソングは究極的にはその想いの丈、殺(あや)める域まで振り切るのではなく、振り切っている場でこそ赦し願う歌の要素がなのだな、と、たとえ間違っていても感じる。
こういったフレーズも美しい同意だけでこみ上げてくる感情をせめて、忙しない雑踏を停める音楽に翻る磁場からまた仕立て直す正装も満更、悪くない。どんな場所のどんなあなたにも、行く末に祝福を。
(2017.12.30) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))