Mr.Children『himawari』【言いきってしまう前に、時計をとめて、未来を語り合ってみるために】
宗教的・政治的・国際学な意味を抜きに、フラットに今年のクリスマス・フェアは低温にも盛り上がっている気がする。
ましてや、クリスマス・ソングはというと、バックナンバーなどの新しいものは個別にスタンダードに、普遍的なものはどこか仮想敵のようになってしまっている感覚を受けながらも軋轢がある感じでもなく、サンタクロースが誰でもいい時代になった世の中は素敵な気がする。
少なくとも、クリスマスを巡って、自身はプレゼントや少しの言祝ぎをよせて、家族の形態や国、都市における生態系がバラバラでも、花を添えた。枯れたときにはもうその場のクリスマス・ソングは忘れ去られる。だからこそ、鮮やかな花を寄せたり。この曲も映画含め、改めてミスチルという存在の大きさを再確認させた佳曲だったが見方によってはどうしようもなくクルーエルで、こういう表現が届けられる瀬戸際でダンスを踊り、レクイエムを願いごとに変えられるかどうかでこれから、朝焼けの色も変わるのだと思う試金石を彼らも好戦的に投げかけていると想う節がある。
休戦に「なる」クリスマスの風景が並ぶのは当然に美しい。しかし、クリスマスが儀式性を帯びながら、日常的な何かを鈍化させてしまうのは惜しいとも想う。
ロボット、残影、生老病死、災害、災禍、模造性、ディストピア…あまたのモティーフが並べられるこのMV。リリカルで獰猛で、長いキャリアを含めた上で胸を打つミスチル節、ダイナミックなロッカバラッドのグルーヴに身を任せていると、自然と「どうにかなる」と思えてくる。自然の状態が「どうにもならない」のに。冬に向日葵を愛でる、愛しき人を抱きしめるときに何を思ったかなんて後でいいくらいに。
余談だが、自身はどちらかというと、“君になろう”としたい。
同化して同族嫌悪も消えて、花畑になればその不毛な畑も開発されずに済むのに、とも。その畑にクリスマス・ツリーを立ててみようとも想えてくる。悲しいことばかりだから、悲しいことに接戦でも喜びが上回るように、冬に合う向日葵が人工美だけでないように、と思う。紆余曲折を重ねてビッグになったバンドから届いたアクションの中にはむしろそういう小ささを感じたりもしたのは日本語の大きな向日葵でもなく、himawariという小文字だったからかもしれない。クリスマスにこそ、噛み締められるだけのそれぞれの舞踏を、せめて。下手でも何でも心から。政治事より笑みを、武装より花を、そして、どうか愛的な何かに巻き込まれた衝動を忘れないような関係性の空洞に添えて。
惨酷な世の中で言いきってしまう前に、時計をとめて、未来を語り合ってみるためにクリスマス・ツリーが咲くのならばそれでいい気がしている。
(2017.12.23) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))