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amazarashi『つじつま合わせに生まれた僕等』
【表現者と表現の、過去と現在】

突き刺さる言葉と突き刺さらない言葉には何の違いがあるのだろうか。amazarashiの言葉はデビュー当初から際立っていて、最初に聴いたときから詞を書く秋田ひろむの意志が明確に現れていた。『無題』という無名の画家のストーリーを描いた歌はストーリーだった。最初に聴いた時は衝撃的だった。それはラブストーリーなのか、それとも人生そのものなのか、人間そのものなのか。

秋田ひろむの2012年のインタビューでは初の渋谷公会堂ライブの感想を「誰にも期待されてなかった人間が、なんとか踏ん張って、しがみついて、このステージに立てた」と答えている。それは『無題』に描かれる画家の姿にも重なることばだ。『無題』では成功後に画家は自身が想う「もっと素晴らしい絵」を描きたいと言い、誰もが目を叛けるような人の本性の絵を描き、世間の高評価を失っていく。先のインタビューで秋田は「攻撃的な歌は、世界への復讐のつもりだった」と言っている。しかし同時に「落ち込む事や苦しい事を世界のせいにしてもしょうがないですし、世界はあるがままにあるだけですから、そこで自分がどうするかの方が重要かな」とも答えている。彼自身のデビューに至るまでの鬱屈と、その表出。そこからその鬱屈にしがみつくのか、それとも新たな希望に向かっていくのか。その選択は誰にとっても大きな問題で、後者を選んだ秋田ひろむの、そしてamazarashiの評価はどんどん大きなものになっていった。それにともなって様々なタイアップもついていく。タイアップにはそれなりの縛りもあるのか、それとも表現が複雑になっていくが故なのか、曲とサウンドの比重が増したように感じられ、その分歌詞の突き刺さり方は相対的に弱まっていったように感じていた。そしてそういう曲の方がYouTubeでの再生回数も多いように感じていて、それはamazarashiが変わっていったことの証なのか、それともリスナーがamazarashiに期待している物というのがそうだったということなのか。まるで『無題』で人々が眉をひそめて汐が退いていったような現象、それを予感した秋田がシフトチェンジした先にある当然の結果なのか。そんな気も少々していた。

この春にリリースされた彼らのベストアルバム。この『つじつま合わせに生まれた僕等』も収録されているが、もともとはメジャーデビュー前のアルバムに収録されていた曲。ベストアルバムリリースに当たって秋田ひろむは「あの日漕ぎ出した僕らの歌の漂着地点が、今のリスナーです」とコメントしている。あの日のリスナーと、今のリスナーに何か違いがあるのだろうか。実際に違いがあるかどうかということと、アーチスト本人が違いがあると感じているかどうかはまったく別のことで、本当に違いがあるかどうかより、秋田ひろむが違いがあると感じているかどうかにこそここでは意味がある。コメントの中にはそれを確定できる程の情報はない。だが、メッセージボトルというアマチュア時代のイベント名をベストアルバムのタイトルにし、メジャーデビュー前の曲をMVとして出してきたということに、「あの日」の自分たちを重要だと考えているのではないかという想像はつく。

そして、この曲に占める言葉の比重はなんだろう。すべてが突き刺さってくる。

    人殺しと誰かの不倫と
    宗教と流行の店と
    いじめと夜9時のドラマと
    戦争とヒットチャートと

言葉による情景の対比が鮮やかで、その言葉のひとつひとつに秋田ひろむのシニカルな目が感じられる。この動画は冒頭部分で曲無しに言葉だけを声にしている。誦読している。そのシンプルなスタイルが、ほぼ同時期に発表された『ヒーロー』という曲とはかなり違った印象をさらに強調しているように思える。

「あの日」の想いと、「今」の自分。大きくなっていく存在と、たいして変わらない生身の実像。そこで揺れるのは誰しも同じで。amazarashiの変遷を遠くから眺めていると、その活動そのものが、彼らの人生を賭けた表現そのものなのではないかという気がしてくる。出発点の彼らの音楽と、現在の彼らの音楽を比較しながら聴くということは、音楽を楽しむという枠を超えた、大切な何かを考える行為のように思えてならない。

(2017.11.4) (レビュアー:大島栄二)


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Posted by musipl