LUCKY TAPES『Gravity』【愈よな彼らの本懐が表出してきた空気感が充溢している】
異常は正常が機能調整しているときにこそ、意味の付与を及ぼし、サイケデリアは現実の切れ端の橋渡し役として、なんて悠長なことを言えるには編集されてしまう瀬で静かに揺れることができるリズムとはどこまでの低度を持つのだろうと考える。海に潜った時に反射する光を底から受けたときの映え方を知っていても、知らずとも。人それぞれの分だけ感性と生がある。小分けにされた箱におさめられるような簡単さではなく、もっと重くさらに深遠に悠大に。
私的に、昨今は大きな転機が巡りながら、極端にブルーになることと、晴れやかさの中での淡さを縫う機会が増えてきて、その二つは全くもって通じ合わず、どちらかというと、僅かばかりの譲歩で国境線を行き交う。そもそも、(国)の名称さえも歴史学的に大きくナイーヴに変わってゆき、それなのに、曖昧に、壁だけが高くなってしまうのは納得できずに翻弄されるのはいつだって小さな個の散在する念のような何かでしかない。
この「Gravity」のMVにあたって高橋海はnote“今作で個人的に絶対やりたかった、水中での同性同士のキス。(中略)Garden City MovementのMVや映画『アデル、ブルーは熱い色』なんかで表現されているような女性同士・男性同士の友情を越えた名前の付かない関係、みたいなものを表現”したいと記している。関係性に力学は要るのか、時おり思うときにこういう発想に触れると、無意識裡に勝手に自身で作っている同時代性の重力に切なくなる。壁を作っていることに意識的だった、内面の壁をもっと高くしていたの自身ではなかったのか、というように。蠱惑的なナイトクラヴィングを促すように、または、ダニー・ハザーウェイ、カーティスなどのニューソウル期の諸作にサウンド・テクスチュアのムードに酔うように、さらにはもはや潰れてしまった紫煙とレアグルーヴとカクテルが合う路地裏のロマンティシズムを思いもする。
同時に例えば、ドナルド・フェイゲンの『ナイトフライ』の中に混じりこんだ仮想的な登場人物みたく。
この曲のおさまったEPにはライヴでは定番の「シェリー」も流石のアレンジメントでおさめられていて、今の彼らの極北のようなまでの甘美な音楽の中に溶け込もうとする矜持を感じるまでの畏怖さえあるくらいで、愈よな彼らの本懐が表出してきた空気感が充溢している。彼らの音楽への敬虔さに対しての気付く自由さに気付くには遅いも早いもなく。
(2017.9.29) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))