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CHARA『Tiny Dancer』【だからこそ、か細く果敢な日常を生きて歩く舞踏者に幸多かれ、とだけ】

満島ひかりの姿をあちこちで観る機会が増えて、それがつい「見入ってしまう」というのではなく、ふわっとしかし、妙な訴求性をもって視界内に入ってくる感じのものが多くて、いや、人によってはそれぞれの感受性もあるのだろうからそれは仮託するとして。

映画やドラマなどでの役の入り込み方は慄然かつ感嘆とするものは以前からあったが、今年話題になったモンド・グロッソ「ラビリンス」での歌唱、MVから、女優という幅を越えて、元々はFolder、Folder5等で踊り、歌いもしてきた相当なキャリアの人で、でも、何気なさをセンシティヴに体現させたら巧いと思う。先ごろのフジロックのものもよかった。

さて、これは、ずっとCHARAが歌詞だけをあたためてきたものに、くるりの岸田繁が曲・編曲を施し、アイリッシュ・トラッド調な、また昨今、彼が上梓した交響曲へ対しての敬虔さが垣間見える柔和な優しさと気概が人間的な知的体力と瞬間のハイタッチの中でうねり、イングリッシュ・ガーデンで彷徨し、花々とともにロンドするような佳曲で、形質がとてもやわらかくとげが刺さる。そして、アドリブのような様ざまな満島ひかりの表情が見えるこのMVも、とても真摯に音楽をめぐる意味を信じている覚悟が端々から滲んでいて、いい。

えてして、CHARAは音楽の人で、ポップ、ラブソングの人だというのとは違う場所からアートへと、音楽へと埋火を託すひとだと自身は思っていただけに、新作の『Symphony』含め、この「Tiny Dancer」のイデアは五感から皮膚に染みる。過去の「やさしい気持ち」、「ミルク」、や「タイムマシーン」などの影響の根深さもあるとしても。(女性)性としての内奥に潜りこんだ果ての母性とも言い切れないもどかしい人間に潜むどうしようもない感情面の葛藤を音楽で揺らしながら、活動を続けるさまには感激する。

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どんな部屋でもいい、窓越しの陽光に、眩しげに布団をかぶり直したり、ソファーの後ろに隠れたり、カメラがあるにしても、演技の妙もあれども、自然なほどに小さい形振りだけで伝わってくる何かは慈愛に近いとしか言いようのない態度で、でも、歌詞をしっかり確認するとそこまでチアフルではないのがまた、切なく、うつくしい。

「愛した事は真実」、「全て残さず踊りきったダンサーみたいにあなたは想い出にしていくの」―そして、“かも”と“だけ”が静かに日本語としての膨らみを生み、個々における感情の中の種子を芽生えさせる気がするようで、そういった箇所もいい。

何一つも「極言(正論)できる」ことなどなく、これ“だけ”しかないことはない、これ“かも”しれない道で戯れることの方が多い現実が枝分かれしてゆく瀬で、それらが「Tiny Dancer」としてほのかに虚空のもっと彼方に昇華してゆくのならば、無数の名前があり、これからの万象と時変に気付く日が来る人が世界あちこちにいるのだろうと感じる。階段を降りて気付く奇妙な色の花。突然の気候変動で、喪った約束。腐敗したブレスレット。消えない手紙。言語化できないアイ。

そうではない人たちが縄張りを争ってゆくとしても、花に定期的に水をやり、台所で自分なりの方法論で調理し、限りなく小さくも日常で舞いながらの、鏡を覗きこむごとに分かる甘やかなまでの、人間の愚かさにまで貫かれている想い出の数々が未来になることに期待と、その他を。タンゴやフラメンコなどの舞台を記憶のなかで切なく織り交ぜながら、複写化して見入ってしまう。

でも、「そこ」までは、誰もそんなに遠くない。

少しばかりの、勇気と丈夫な思慮の靴があれば、今はもうすぐに過去に為すだから、過去を軽やかに踊れば今を先送るのではなく、未来に可憐に舞うことができるとの轍を数える。この音楽も過ぎ、映像の中の残影も過ぎてしまう、だからこそ、か細く果敢な日常を生きて歩く舞踏者に幸多かれ、とだけ願いながら、過ぎないかもしれない今に不器用なステップの手順を。“さよなら、言語”と映画を撮ったある監督を想い出したのは気のせいか、曲のせいか。いつも言葉を忘れがちな瀬に。

   私が置いていく物は
   小さな態度

目の前の水たまりを越えるように、グラウンドの泥濘をさけるように舞って、次の季節まではすぐに愛のように近く。

(2017.8.26) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))


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Posted by musipl