環ROY『はらり』【同時にどこかでまたきっと新たな芽吹きも聞こえてくると信じながら】
旬に旬のものを手に、ときにめでられるだけでありがたいと思える日々が続くということそのものが貴重でかけがえなく、ありがたい。花鳥風月がまるで深い霧の向こうで遠くの仮想現実の中に閉じこまれてしまうかの様な世の速度に巻きとられながら、なおさら、喩えば、春には桜や筍、蕨や、梅雨空には紫陽花、小手毬、夏には鱧や鮎、西瓜、アイスクリーム、向日葵を、秋には紅葉、椎茸、秋刀魚、冬には静かな雪空と鰤や南瓜を少しだけでも―。そんなに、多くは要らない。そして、そういう風景を電子上ではなく、現実で誰かとささやかに分け合い、共有できる時間や感覚とは思っている以上に短く、果敢ない。気象変動や多くの諸事情があるからそういったものを触れられず、またじわじわとそういったそのものの束が概念としてでもなく、見送ってしまわざるを得なくなり、いずれは四季さえカプセルや液晶の中で見歩くための路が整備されるのかもしれなくても。
勿論、悲観や諦念、無力感ばかりを抱えているわけではなく、技術進歩と人種を越えた流動性、多様性を掘り下げると、光明を感じる共通言語を感じることも多々あり、無理にではなく、道理で異分野や異境ながら「合わせ」てくれる人たちとつながりができる瀬は嬉しさもありながら、大きなメガ・モールで迷子になってしまうか、不穏な将来の予感に置いていかれようとしても、人間同士の間隙にはこういう曲と映像が、こういう詩とテンポがそよ風のように、存在体と時間を労わるように舞っているならば、要領や効率、富の限りない追求から離れてほんのピントが深刻に合い“すぎない”レベルで共に泳いでいられる期待も持つ。生物としての諸器官がどんどん衰えていこうとしても、その分だけ、他の感覚が研ぎ澄まされるみたく、メロウになることとは、日和るわけではなく、どんどんしなやかに受け入れられる選択肢を小さくでも増やせてゆくことなのだと思うことが増えたのと似て。
そんなに駆け足で急がずとも誰もがいつかは終わるし、同時にどこかでまたきっと新たな芽吹きも聞こえてくると信じながら、玉響(たまゆら)の微かな音に意識的になることができるように、過多な邪気は削ぎ落とされてゆくような明日に、と。
(2017.8.1) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))