岡崎体育『式』【摩耗したものを受け入れて、忘れてしまえるか、そうじゃないか】
ある異地で、不意に激しいスコールに会って、ゲリラ豪雨なんて日本語じゃなくて本当にスコールで、そこで濡れねずみになった自身の後ろには高層タワー群があって、でも、なぜか、熱帯雨林から吹く風にほぐされるように車も拾わずにモールに避難した。大きなモールの中で包摂された自己はまるでそのスコールに会った一秒「前」さえなかったようで、モールの人たちは「外は大雨なのだね。」みたいな暢気は雰囲気で、冷房でむしろ厚着をしているくらいで、そういう感覚差があちこちでどんどん出てくる。
想像力と、ほんのわずかの共時性。それが疎外されるほどにあなたとわたし、はますます複雑なようで、単純に席を譲り合わなくなる。席が空いていても座ったら譲ったら、何があるか分からない瀬にセキュリティは厳格になって、誰もが誰もに怯えている。同時に誰かには容赦なく牙を向く。そっとしておくには、放っておくにはいかないのだろうか。
批評精神とこの時代における表現方法の機微を過剰なまでに弁えているような彼はここでも編集長の大島が巷間でも大きな話題になった『Music Video』で触れていたが、あっという間に今の時代を担う寵児になった。そして、新たなアルバム『XXL』からの曲も着実に振れ幅の広いMV、『感情のピクセル』、『Natural Lips』を事前に公開し、着実にバズが起こしながら、それでも、この『式』における彼方まで往くような叙情性こそ、彼の音楽に対する限りない信頼と真摯な覚悟を感じざるを得ない。彼の作為があろうが音楽として。深読みがいくらでもできるような散文詩のような中にこの時代を生きる一人のひととしての右往左往する感情やごちゃ混ぜになった楽観、悲観、諦念、願望までがシンプルなバラッドに沈む。それでも、バラッドから細い血管が浮き出てくるほどの切なさとこの歌も忘れてしまうのだろう、消費されてしまうのだろう、というような感じまでがいとおしい。淡々としたMVに潜むなんてことのない陰翳やふとした彼の表情までが演出などを抜きになんだか日本語で音楽を聴く行為、音楽を通して表現としての何かを知ることは悪くないと思えてくる。いつだって老いず朽ちない時間はない。そこで摩耗したものを受け入れて、忘れてしまえるか、そうじゃないかなのか、というのは難題だが、出来るかぎり、緩んだ指輪が老いた先の中での対話の群を編みなおしていけるように、今をそれぞれで続けてゆくしかないのかもしれない。
(2017.7.4) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))