CORNELIUS『あなたがいるなら』
【小山田圭吾が「うた」うだけで、ここまで胸の奥に響く何かがあるのは何なのだろう】
Lethe(レーテー)という言葉をあちこちで見ることがあり、日本語では馴染みが薄いかもしれないが、ギリシア神話では黄泉の国の川を意味し、それを飲んだ者は忘却に向かう。ハイデガーもこの概念枠を重要視し、また各作家たちが様ざまな詩や小説でもメタ・モティーフとして使われている。
コーネリアスこと、小山田圭吾が「うた」うだけで、ここまで胸の奥に響く何かがあるのは何なのだろう。音響美の細片への零落と映像の共振率を高めてゆくほどに彼はどんどん寡黙にときに「あ。」しか発しなくなくなり、または客演の歌手にうたを任せたりしながら、世界の中で受け入れられるオルタナティヴで先鋭的かつポップな日本人アーティストの存在としては稀有なものになっていった。スティング、ベック、ブラーなど名だたるリミックス・ワークスから、METAFIVEへの参加や博覧強記な音楽のツリーを結びつける技巧まで表現者/伝承者としての意味を越えてゆく中での新しいアルバム『Mellow Waves』からの先行となる「あなたがいるなら」。何度も聴くほどに、レーテーなうたに思えてくる。
作詞は坂本慎太郎とはいえど、この境地まで来るコーネリアスは想像ができなかったような、パラノイアックな音響美と叮嚀に置かれる言の葉、展開の中で聴覚から五感、胸の中に響く蠱惑と鳴響。「ただ 笑うだけで 嬉しくなるのだろう 声を聞くと なぜ意味もなく そわそわしてくるのだろう」。ラブソングといえば精確にそうでもない、世界がどことなく不穏で奇妙な方向に往くなかでの、共振を促す言語態としての物悲しさ。ここまで「来て」しまった。もはや、「あ。」の時代に彼は戻れないし、戻らない。
スキーム、系の列順から音響の移動遊園地、自然音、有機音と融合しながらの絞り込まれたサウンドスケイプ、から再びの”うたもの”という短絡性ではなく、今、どうにか歌わないと間に合わないと、リヴァイアサンに追い込まれてしまった人たちに向けての、せめてもの、ということなのかもしれない。不在の懇寧たる願いの向こうへの忘却の淵。向こうへの抱え込みすぎた原罪に塗れた人たちの未来まで焦らずに抽象性はとても今、美しく現実的に饒舌に「なる」。まだこんな世をマシだな、と言えるなら。“あ”の次は、“い”が来るのを想いだすように、繊細さに愛的な何かは宿る。 MVのどこかセクシャルな要素群とともに。
(2017.6.17) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))