sachi.『ミライヘ』【すべての悩みに寄り添ってくれる「自由で良いんだよ」】
子どもを持つ親として、なにかしらの導きは義務なのではと思う。放置して良いわけはないし、放置しないのであればなんらかの指導を、教育を、すべきなのだろう。だがそれを一歩間違えば虐待と呼ばれている何かになる。子どものためというマジックワードですべてが許されるわけではないし、よからぬことをしないためには何もしない以外に無いけれど、それだと放置ということになり、また無限ループに陥る。
sachi.というアーチストはnoteのアカウントを開設してて、その最初のnoteで自分の音楽の背景のようなものを綴っている。その中で「起立性調節障害という自律神経の病気になり 体調を崩し 不登校になりました。」と書いている。朝起きられない、その結果不登校。サボっているわけではないのに周囲からはそう思われてしまう。小学校の同級生からは放つ悪気無い言葉が彼女の学校での居場所を奪っていく。さらには同級生と会うかもしれないが怖くて引きこもってしまう。
僕が大人になり、勤めていた会社を辞め、しばらくは何することもなくフラフラとしていた。昼過ぎまで寝ていて散歩などに出かける生活。大家さんの離れのアパートに住んでいたので、昼日中に何してるんだと思われたくなくて、こそこそと出かけていたことを思い出す。別に悪いことをしているわけではないのに、どことなくうしろめたい。うしろめたさなど感じる必要もないのに感じてしまう。20代半ばの大人がそうなのだから、小学校高学年で不登校状態なら、感じなくても良いうしろめたさを感じたりするだろう。そんな必要ないよと誰かが言ったところで感じてしまうだろう。そういう時に親として気づかずに子どもを追い込むのは論外だが、気づいて心配したとして、できることには限界がある。親だけでできることには限りがある。
sachi.さんはそういう背景から、思いの丈を歌にしている。不登校をセールスのネタにするつもりなどなく、事実だけを誇張することなく表現していくという。人は自分の体験とプラスアルファ的なことしか引出しはなく、だからそういう体験を表現するというのは自然なことだ。そしてそういう体験をしたことの無い人にとって、表現を通して部分的にも知ることができるというのは良いことだ。知ることができて、いざそういう病気を抱える子どもにであった時になにかしらの対処ができるだろうし、対処までできなくとも、心構えの一助にはなる。
曲の冒頭で、男の子のランドセルは黒、女の子のランドセルは赤をあてがわれると歌う。時代的にその状況は今と多少違うけれど、その歌詞が象徴する大人の決めつけとそこから外れていく子どもたちの生き辛さは今も厳然と存在する。自分の子どもがそういう中で苦しんでいたらどうしよう。自分自身が親としてそういう決めつけを強いていたらどうしよう。考えさせられる。一瞬考えただけで具体的な解決策が思いつくわけではないけれど、まったく考えないでいるより、多少なりとも考える機会があることは大切なことだ。
sachi.の過去の曲をひととおり聴いてみると、いろんなタイプの楽曲があることに気付く。彼女の体験をどう歌として表現すれば良いのか、その試行錯誤の過程が見て取れる。ある曲は過激で攻撃的な様相を呈している。押さえつけられてきた側からの抵抗として、そういう表現もある意味当然なのだが、攻撃的な表現は時として空回りする。伝えたいことが明確にあるのに、攻撃的であるが故に聴く者を身構えさせてしまう。その攻撃性を含めて表現なのであり、攻撃性が功を奏すことだってもちろんある。だが、彼女のこれまでの攻撃的表現は、どちらかというと空回りしていたのではないかなあという気がする。しかし、この『未来へ』という曲はバラードという形態を取っていて、聴いていて引き込まれる。ひとつひとつのフレーズが沁みてくる。かといって弱々しく歌っているのではなく、とても強い声で歌っていて、びんびんと迫ってくる。その迫ってくる様はある意味攻撃的でもあるのだけれど、攻撃されているという感覚はまったくなく、気づいたらsachi.の想いがすぐ側に到達していることに気付くという感じだ。それは過去の攻撃的な表現が、自分のような状況を理解できなかった他者に対して訴えるという形式を持っていたのに対して、この曲は、同じ状況の子どもたちに経験者として感じたこととアドバイスを伝えようという形式になっているからではないだろうか。その理由については聴く人各自が考えれば良いことだが、この曲はとても訴えかけ力に優れていると思う。別に彼女が経験した「起立性調節障害」に限らず、ちょっとした進学上の悩みなどにも当てはまる、「自由で良いんだよ」というメッセージにつながっていることも大きいのではないだろうか。
(2020.6.19) (レビュアー:大島栄二)