藤井 風『もうええわ』
【それぞれの必要性に応じていろいろな表情を見せて寄り添おうとしてくる優しさ】
暗いテンションと明るくなっていくベクトルとが交互に訪れる曲。その構成が面白いなあと思う。動画でもゴミ集積所にたむろするホームレスの藤井風と、街中を放浪するミュージシャンの藤井風。同じ人なのにこんなにも見え方が違うのが興味深い。ものごとには常に表と裏があり、裏と表がある。ひとつのものを見る時にどの角度から見るのか、どの部分を見るのか、見たいとも思うのか。それによって見える光景というのはまったく違って見えるのだろう。
藤井風はこのMV公開の2日後にこの曲(とMV)の解説を自らする動画を公開していて、「すべての重荷の放棄」であり「あらゆる執着からの解放」を歌った歌だと語っている。シンガーが自らの作品を語ることってなんだよという気分はある。なぜなら作品の中で表現しきれていない部分があることを認めているようなものだからだ。しかしあらゆる展覧会には説明文が掲載されているし、画集にも解説のページはある。それらが鑑賞の手助けになることは否定するものではないし、そこから興味が深まって鑑賞の感度が深まっていくことも普通にあることだ。だから表現者本人が解説することにはプロモーション的な意義はきっとあるのだろう。
しかしどこかの評論家の解説とは違って、表現者本人の解説はズバリの正解でしかなく、だから鑑賞者から自由な鑑賞の余地を奪うことになる。それは、自由から不自由へまっしぐらの道だといえる。そしてそれこそ、この歌が期待する「あらゆる執着からの解放」と真逆のことなのではないだろうか。
しかしそんなこととは対照的に、この曲はとても自由だ。そもそもタイトルの「もうええわ」という言葉からして、その文字を読まずに曲を聴いているだけでは「もうええわ」と聴こえてこなく、英語的な何かのフレーズ、「Oh Yeah!」「ウーララ」的な合いの手かと思ってしまう。感傷的なマイナーなメロディが藤井風の独特な明るさを伴う歌唱とシンクロすることで、今この瞬間の感情がどういうものなのか混沌としてくる。ただ泣かせるばかりのマイナーバラードや、底抜け能天気なポップソングとは違って、複雑な感情が交互に入り交じる、ふくよかな表現が自由に実現している。泣くことが必要な人も笑うことが必要な人もいて、それぞれの必要性に応じていろいろな表情を見せて寄り添おうとしてくる「優しさ」が感じられる。
(2020.5.28) (レビュアー:大島栄二)