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寺尾紗穂『北へ向かう』【すべてのミュージシャンとリスナーに日常の音楽の日々が戻りますように】

   トンネルを抜けると曇り空/今北へ向かうところ
   私は今日も歌を歌う/今北へ向かうところ

冒頭の歌詞から自然体。トンネルを抜けて雪国が見えるとかいういかにもなドラマチックさは無く、ただただ日常が描かれる。シンガーにとって歌うことは日常であり、各地に歌うために出かけることもまた日常のこと。

映像には鳥の姿が映される。歌詞の中でも、歌のために北に向かうシンガーの姿が鳥が飛んで行く姿と重ねられる。田植えの季節になると今年もまたつばめの姿をあちこちに見かけるようになる。県境を超えた移動の自粛などなんのそのだ。当たり前だ。彼らに自粛要請など通じるものか。せっせと虫を捕まえては子どもに食わせ、また飛び立っては捕まえて帰ってくる。まだ飛べない子どもたちと北へ飛んで行く日を夢見て。いや、そんな夢など見たりはしないのだろう。本能のままに、ただ黙々と近所を飛び回る。

本能のままに飛ぶ鳥の行動が疫病を拡げる場合もある。なんてことだ。要請に従わないなんて。そのおかげで本能とはかけ離れた生き方をしている養鶏に感染させると、養鶏場全部がダメになる。なんてことだ。だったらそんな非社会的な渡り鳥など殺してしまえ。絶滅させてしまえ。

そんなバカなことができるものか。鳥自身が感染のリスクを負いつつも日々のエサのために飛び回る。感染しなくったってカラスに襲われる、猫に襲われる、ヘビに襲われる。生きていくのは大変ですよ。それでも毎年毎年同じ時期にやってきて、子育てをして、また北に飛んで行く。

猫に襲われないようにするにはどうしたらいいんだろうか。巣から出ないことである。巣にフタをすることである。ヘビでさえ入ることができないほどに堅く閉ざして外の世界と隔絶すればいい。それなら猫にもヘビにも襲われずに済む。生きてはいけないし、育った子どもたちと北に飛んでいくなんて夢のまた夢だ。夢なんて見ないだろうけれど。

寺尾紗穂は3月のアルバムリリース前からまわっていたツアーも途中から延期の嵐。もちろん彼女だけの話ではなく、多くのミュージシャンが自らの巣にフタをするような非日常に追い込まれている。自らの健康だけならまだしも、客の健康をと問われれば抵抗することなどできないし、客自身がリスクを理解してもなお見に行きたいと思っても、その先にある家族や友人の健康をと問われればまた躊躇するだろうし。

そんな中、寺尾紗穂が淡々と「私は今日も歌を歌う」と歌っているのを聴くと、ああ、淡々と歌っているのだろうなと想像できる。完全に思い込みかもしれないけれど。世の中の出来事など知ることなく、まるで本物の鳥のように淡々と、日常のこととして今日も歌を歌っている。彼女にはどことなくそんな浮世離れした雰囲気があるのだ。それでもきっとライブ活動は中止していることだろう。浮世離れしていようが、現実にどっぷりと浸かっていようが、すべてのミュージシャンとリスナーに日常の音楽の日々が戻りますように。

(2020.5.30) (レビュアー:大島栄二)


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Posted by musipl