東京スカパラダイスオーケストラ『ちえのわ feat.峯田和伸』【家族みたいに面倒でも、面倒くさいのが愛だろっ?】
東京に行くと、その行動範囲や無知さもあるが、ちょっとばかりひと休みしたいな、というときになかなかできるところがないなとつくづく思う。それよりも人の多さと歩く速度にはより戸惑い、翻弄されてしまう。そして、2020年に向けてなのか、時代の変わり目なのか、工事中や開発途中の場所が増えて、知っていた景色にはシャッターが随分降りていた。スカパラも愈よ、峯田和伸と組むのだなと曲を聴いていると、案外、その相性の悪くなさとぼんやり最近、読んだ本や資料の束、観た景色、話などとシンクロしてきた。西加奈子の『i』、ステファン・ウェイア『失敗だらけの人類史』、AI関連、AMAZON GOに行った知己の話、南国で日々刻刻できるモールとマンション、コンドミニアム、そして、日本の地方で土砂崩れのように消え去る家やまるで難民キャンプのような病院の混み具合、あらゆる場で溢れる憤怒、悲しみ、退屈のために足してみる社会内他者、そして、殆ど個人的に見なくなったTVではゴシップの波がより大切な何かを隠してゆくようで、でも、人類は過ちを繰り返すなんて大ごとではなく、この曲のタイトルのように知恵の輪をほどくときの快感ともどかしさという五感が喪われてしまう、そんな些細なこと。スカパラはスタイリッシュで都会的なバンドで、スカを巷間に拡げていったのみならず、奥田民生をはじめ名だたるアーティストを招いてのコラボレーションでのセンスの良さや曲そのものがその時代を射抜くようで、でも、なぜか近年はどこか個人的に距離が出てきたのもあった。最近の小沢健二の復帰の熱量にどことなく俯瞰を持つように、彼がスカパラとやっていた曲といえば、何より小坂忠の『しらけちまうぜ』なのだったよな、とかは都会という人格、品性へ持っている何かは変わらないまま、今も自分の中に在るということなのかもしれない。
余談になるが、日本のある種の観光都市は一時期ほどの狂騒がなくなり、ホテルが取りやすくなってきたと外国の知己は云う。勿論、まだインバウンドの名ではなくても、日本の訴求力はまだ強い。というよりも、その「狂騒」はそもそも観光名所を巡るマウンティングの居合、間への侵犯だったりで、決してすぐに後景化する訳ではないだろうけれど、人が居なくなる場所に人が集まり出し占拠し、人が集まり出す場所に新たなシステムが適用されてゆくような、英国で孤独に対して政府が動きを始めたことや日本でも住所や存在が不特定な人たちが可視化されてきたり、それでも、それどころではない想像力をどこかに置き忘れたり、置き忘れたそれは何か加工アプリで勝手に映えているのだろうか、考えると複雑になる。置き忘れた“それ”といえば、小沢健二が本格的に日本のシーンに離れる前のボロボロだった時期のシングルでパンキュッシュな8分を越える「ある光」を峯田和伸が大好きな曲の一つとラジオで言っていたのを想い出しながら、知恵の輪を戻す。
スカパラの場合、歌詞が谷中敦がほぼ担うことになるのだが、これは最初、峯田和伸が書いたのだとすっかり想っていた。それくらい何だか彼のこれまで、来歴と今の存在感にフィットしてきたからで、でも、彼の歌唱や立ち姿が“取り込んでしまう”のだとも感じた。そういう、スカパラなのだけど(スカパラらしくない)ブルーハーツ直系、初期のザ・ブームのようなパンクで峯田の色が強い曲で、「壊したいくらいいらついて」という歌詞をこれだけエモーショナルに物悲しく切実に今歌える歌手はどれくらい居るだろうか、というくらい心の琴線に響く。
悲しい未来や隣近所の憂鬱に構っていられないほどの既製の今への面倒くささはあっても、面倒くさいのがそもそも愛的な何かなはずでそこで叫ぶには遅くないとも思う。
そして、西加奈子の『i』の中での主人公の言葉が心の中で衝動的にシンクロし、巡りゆく。面倒な現実は迂回できないままに。
―毎日、人が死んでいるのは、それも数万人単位で死んでいることは間違いないのに、自分たちの近くで起こらなければ、それはなかったことと同じことになる。
(2018.2.10) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))