PANDA HEAD『日の当たる場所まで』【人々は実世界へと移り、劇場は灯りを落とし、ストーリーだけがそこに取り残される】
音楽を鑑賞するには一定の記憶が必要だと思う。記憶、知識、理解、それを指す言葉は何でもいいよ。もちろん音楽にはビートがあって、メロディがあって、それを耳で身体で感じられれば楽しい気分になることだってできる。言葉を解しない赤子だって音楽を楽しむことはできるんだ。だけど、それは観賞ではない。頭脳の中で汲み取って他との違いを理解することで、その作品を評価したことになる。PANDA HEADというまだまだ無名のバンドのこの曲、聴けば聴くほどグッと胸に何かが強く押し付けられるような感じがする。メロディも演奏もさほど凝ったことはなくて、そんな凝ったことの無いサウンドに歌が淡々と語られる。明確なストーリが説明的に語られているのではなく、むしろ断片的でさえある。だがその断片が重ねられることで、僕の中ではどうしてもひとつのストーリーが紡がれる。それは僕の経験や知識や記憶があるからで、他の人が聴いたなら僕と同じストーリーなど浮かんでこないだろう。そもそも、ストーリーなど像を見せずに聴き流す人もいるだろう。それは当然だ。記憶が違うだけで、どちらが偉いとかいうことではない。ただ、1億人には1億個の体験があり、それが各人が反応する音楽を決め、観賞にまで至らせるのだ。僕が何も感じないものに落涙する人もいるし、その逆もあるのだ。
タイトルの「日の当たる場所」が何を指すのかも、聴く人によって違ってくるはずだし、それでいいと思う。彼らは自らをエンディングロックバンドと称していて、それは彼らが「エンディングみたいな唄をうたっている」からだという。確かに彼らの歌はエンディングのような風情を持っている。ではエンディングテーマとはいったい何なんだろうか。それはひとつのストーリーの終わりを告げる曲。しかし、ひとつのストーリーが終われば、劇場は灯りを点し、ストーリーに心を寄せていた人たちは涙をふきながら明るい実世界へとスタンスを移していく。劇場はまた灯りを落とし、ストーリーだけがそこに取り残される。そういうのもなんか象徴的で哀しくなってくる。もちろんそんなことを考えることなく、人々はそれぞれのリアルであくせくしなければならないのだろう。
(2018.4.4) (レビュアー:大島栄二)