Amelie『バウムクーヘン』【到達し得ない何かが中間に挟まっているような印象が】
なんとなく、空間を感じる。聴いている自分と、演奏しているAmelieとの間の空間を。大きな変化があるわけじゃないけれど、過去の曲と較べると少しばかりトーンを落としたような印象があるこの曲。それはMVの映像にもいえることで、微妙にピントをずらしたような、それか解像度を落としたような、とにかくクッキリという映像とは真逆の、近づこうとする者を寄せ付けないギャップが設けられているように感じられる映像。その映像のとおり、楽曲にも、到達し得ない何かが中間に挟まっているような印象が感じられるのだ。
ロックバンドは、いやロックに限らず表現者というのは自らの表現を伝えようと必死になる。だって、大切な表現なんだもの。命を削るようにして生み出した大切な表現。その良さをわかってもらうためなら何だってする。口下手なボーカルがやたらMCを頑張ったりする。誰ともわからない見知らぬ人から握手を求められれば笑顔で応える。バイトでコンビニのレジ打ちをしている時に見知らぬ客から握手を求められたらどうか。絶対にしないだろう。なのにバンドマンなら握手に応じる。そうでもして、普通なら絶対にしないようなことをしてまで、表現を届けたいのだ。
しかし、この曲のように時として伝えるべき相手との間に距離をはさもうとする表現を目にすることがある。それは一体どういうことなんだろうか。ただの思い違いなのだろうか。映像も撮ったディレクターがたまたまそういう映像にしてみただけなんだろうか。
□ 擦れ違って 手を離して ありがとうって 歩いてく
□ 僕らにもこんな日が 来たんだね
この歌詞に込められた意図はなんだろうか。バンドマンに限らず、人は時々別れを経験する。全体として恋愛に於ける別れとその後の虚無感のようなものを歌っている歌だ。だからそれがこの歌と映像の意味なんだと解釈すればいいのかもしれない。だが、それとは違った、バンドとしての表現や受け手との関係性にも変化が出てきているんじゃないかと勘ぐったりする。Amelie良いバンドだから、そんなこともなくまたズバッとした切れ味のパフォーマンスを変わらずに続けてくれればいいなとも一方で願いつつ。
(2020.2.8) (レビュアー:大島栄二)