サイダーガール『メランコリー』
タケモト リオ『夏の中で』
ヒグチアイ
『どうかそのまま』
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数年前に感じていたヒグチアイの熱量たっぷりの演奏と歌唱が、このところ鳴りを潜めている、と感じていた。この曲もそうだ。この淡々とした歌唱。力を入れている素振りすらない。いってみれば、誰にでも出来る表現だ。こんなの、他の歌や曲と比較してわざわざ選ぶ理由はどこにあるんだろう。そう思った。最初に聴いた時には。
しかし、ヒグチアイだ。もしかしたら何かあるのかもしれないと思って何度か聴いた。聴いているうちにゾワゾワした。淡々と歌っている中に込められた想い。毒のような、エゴのような、でも振り払うことなどできない本音。何なんだろうかコレ。ひとりの女性が男性のところから逃げ去るようなシチュエーションの、女性の心情を歌っている。できないことをやろうとする私。そのままでいいよと言った君。自分ができないことを完璧にやってくれるパートナーと一緒にいると自分を嫌いになってしまう。だから、逃げ出すのだ。そして忘れて2度と思い出さないでという。これは、怖い。
知人が鬱になった時に、鬱に関する本をたくさん読んだ。どの本にも、頑張れというのは禁句だと書いてあった。今のままのその人を肯定するのがいいと言っていた。なるほどそうか。そりゃそうだな。鬱のことを医学的に正しく認識できているわけではないけれど、いろいろな理由で精神的に参ってて、正常なパフォーマンスができない人に対し「やる気になればできる、頑張れ」と言ったって何の解決にもならないし、その人を追い込むだけにしかならない。骨折していてギブスをして松葉杖をついている人に「やる気になって全力疾走しろ」ということの無意味さは見るからに明らかだが、心の病の場合、見えないが故になぜ通常通りにできないのかということは周囲からは見えにくい。この人は病気ですよという明確な表示が無いばかりか、その人の「病気」というものの内容が一般にはまだまだ理解が進んでいない。そのため身近な人でさえ簡単に頑張れと口にしてしまう。励まそうと、応援しようという気持ちがベースにあるから本当に厄介だ。
それは鬱に限ったことではない。人にはその人の能力の限界というものがある。それとは別に自分に対して期待される理想の能力というものもあって、両者のギャップがある場合、それが大きければ大きいほど、存在する差のどうしようもなさに絶望する。そのままでいいんだよといわれても、その差を埋められないという事実がどうにかなるわけではなく、ただただ絶望に苦しむばかり。みんなそれぞれ違ってるということを受け入れさえすれば苦しむ必要はないはずなのに。
ヒグチアイがこの曲で歌っているのは、そんなギャップの中でのいたたまれなさだろう。日常の普通のことをやろうとして、できなくて、それをいいよいいよと受け入れてくれるパートナー。なんて優しいんだろうか。優しいからこそ、できないままでいるのは申し訳ないのか、できない自分を責めたくなる。責めたくなるのは辛いから、逃げ出す。開き直って「私はできないんだよ、無能なんだよ」と言えればいいのだし、その開き直りをパートナーは責めそうにないのに、結局責めるのは自分で。だから、どんな時も敵は周囲ではなくて、自分なのだ。怖いな。どこまでの無能が自分を責めるに値するのか、その明確な指針などあるわけもなくて、だからいつ誰が自分自身を責めるようになったとしてもおかしくはない。だから、怖い。とても怖い人間の真理を、この曲は淡々と歌って聴かせている。他の曲で印象的なピアノパフォーマンスを前面に歌うことよりも、地味だけど、とても地味だけど、心に沁みるように刺さる。ヒグチアイという人は、この怖い歌を実に淡々と歌う、天才だと思う。
(2019.9.21)
(レビュアー:大島栄二)
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