ひとりの人間に出来ることなど限られている。好きなものをコレクションしようとひとつひとつ買いそろえて、コンプリートするのはひとつの喜びだが、コンプリートできるものなんてほんのごく僅かで、ほとんどのものは一度手を出したら際限が無くなる。無限地獄だ。いつまで経ってもコンプリートなど出来やしない。愛する子供の笑顔をずっと見ていたい。目に入れても痛くないこの子のすべてを知りたいと思ったところで普通は子供の一生をすべて見ることはできない。それどころかある程度の歳になったら子供の方から心に壁を作り、その内側を見たいと思ったところで叶わない。山手線の駅名を全部言える子供はいるが、それがコンプリートなのかというとそうではなく、東海道の駅名を全部、日本中の駅名を全部、と鉄道オタクの底なし沼にはまってしまったら一生抜け出すことができないし、じゃあどっぷりとはまろうと思ったところで日本中の駅に降り立つことなどほとんど不可能で、人生を賭けてそれを達成したところで、そのコンプリートにどれだけの意味があるというのか。日々の生活は同じことの繰り返しで、スマホしか見てなくても自在に歩いて行ける駅やバス停を乗り継いでどこかに行って、時間が経てばまた同じ道を戻っていく。知らない駅がたくさんあるのに自分はせいぜい10個くらいの駅ばかり行き来する人生。それを善しとするのかダメだと思うのか。ダメだと思って反発したところで、別の人生に待っているのは今とは違うどこかの駅ばかりに降り立つというだけのパラレルワールド。
the coopeezのこの曲は人生なんてそんなものだと割り切った上で、それでもしぶとく生きていくよと宣言する。歌詞の中に弱さや苦しさが散りばめられていて全体のイメージはとても暗い。それなのに曲を聴いたあとの感想は前向きで進んでいくというもので興味深い。単調なビートが刻まれて、その上に歌が載せられていく様はまるでお経のようで、このサウンドとメロディに「あの世は極楽それまで頑張って生きなさい、頑張って生きた人は極楽に行けるよ、ズルしたら地獄に行くから覚悟しなさいね」みたいな歌詞の続編があれば、それはまさにお経そのもの。生きていくことは苦しくて、それでも生きていかなきゃねというのは何千年前も今も同じことなのだろう。映像に出てくる人や街や田舎の様子が、生きているのに死んでいるような光景の連続となって迫ってくる。京都四条河原町の街並なんて僕の日常そのものなのに、そして仏教都市京都の中でももっとも仏教から縁遠そうな場所なのに、そこに涅槃を感じてしまう。音楽の影響なのだろうか。音楽とはかくも影響力をもった表現なのだろうか。